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こぼれ話

大久保彦左衛門は本当に眼鏡を掛けていたのだろうか

江戸時代前期の旗本で、徳川家康(1542-1616)に仕えて戦功をあげ、秀忠・家光にも仕え、無欲、恬淡、奇行で知られている大久保彦左衛門(本名:忠教=タダタカ 1560-1639)。彼は昔の映画や講談の中で、よく耳にひもで掛けるタイプの眼鏡(ひも付き眼鏡)を掛けたユーモラスな姿で登場してきますが、本当に眼鏡を掛けていたのでしょうか。 なぜなら、当時の眼鏡はすべて外国からの献上品で、それをもらえたのは大名や領主などといった、地位も実力も兼ね備えた人たちに限られていましたので、旗本の彦左衛門までが所持していたとは考えづらいのです。

家康などのお古を譲り受けたものだとしたらどうでしょうか。家康の時代の眼鏡は老眼(老視)用がほとんどでした。老眼鏡は小さな文字などを拡大して見るための眼鏡です。その老眼鏡を書見の時ばかりでなく 、登城する時などでも常に掛けていたというのでは、どうも妙な感じがします。したがって、彦左衛門の眼鏡は映画などでデフォルメされたもので、本当に眼鏡を掛けていたかどうかは、はなはだ疑わしいと思うのですが、あなたはいかがでしょうか。

《参考文献》
◆『眼鏡の社会史』白山晰也著、ダイヤモンド社

眼鏡の鼻あて(パッド)を発明したのは鼻の低い日本人

今でこそ、眼鏡フレームのごく普通のパーツとなっている「鼻あて」。実はこれは、鼻の低い日本人が発明したものだといわれています。16世紀後半から17世紀にかけて、ヨーロッパの方ではフレームの両こめかみ側に穴をあけ、そこにひもを通して耳に掛けるスタイルの眼鏡(ひも付き眼鏡)が登場して、日本にも輸入されるようになりました。この形態はスペイン人の考案で、スパニッシュ・イタリアン型といわれています。 

しかし、この「ひも付き眼鏡」を鼻の低い日本人が掛けると、まつ毛とレンズとがくっついてしまい、うまく使えないという欠点が生じてしまいました。そこで、両レンズをつないでいる部分(ブリッジ)に鼻あてを付け、これを額にあてて、まつ毛とレンズの間にすき間ができるように工夫した眼鏡(ひも付き鼻あて付き眼鏡)を発明したのが日本人だといわれているのです。眼鏡の進歩・発展の中で日本人が貢献したのは、この「鼻あて」だけなのですが、私たちは、この発明にもっと鼻を高くしてもよいのかもしれません。 

《参考文献》
◆『眼鏡の社会史』白山晰也著、ダイヤモンド社

大内義隆へ贈られた「日本最古の眼鏡」は実は天皇に贈られるものだった?

眼鏡はいつ頃、どのようにして我が国に伝わり、最初に手にした人物は一体誰だったのでしょうか。それは、キリスト教布教のため日本を訪れたイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルが1551年(天文20年)、周防(山口県)の殿様・大内義隆に面会した際に贈った「十三品目の立派な贈物の中に含まれていた眼鏡が最初」といわれていますが、残念ながら現物は残っていません。

ところで、この「十三の立派な贈物」は最初から大内氏に贈られる予定の物ではなく、本当は「日本最強の国主」である天皇に布教許可を願い出る際の献上品として用意されたものだったのだそうです。しかし、応仁の乱の結果、当時の「ミヤコ」は破壊され、もはや天皇にはなんの実権もありませんでした。

またどういうわけか、ザビエルは折角その日のために用意された贈物を持参せず、しかも身なりは貧相な装いであったため、天皇との面会を拒否されてしまったそうです。そこで彼は、次善の策として、当時「西の都」として繁栄していた周防に布教活動拠点を置こうと、今度は正装して、贈物もしっかり携えて大内氏との会見に臨んだというわけです。したがって、ザビエルが「ミヤコ」に上京する際に贈物を持参してさえいれば、日本で最初に眼鏡を手にした人物は大内義隆ではなく、当時の天皇(後奈良天皇)であった可能性もあったのです。もっとも、この「大内義隆に贈られた眼鏡が日本最古」には異論がないわけではありません。というのは、京都のあるお寺に、室町幕府12代将軍・足利義晴が所持していたという古眼鏡が現存していて、一説には、この眼鏡こそが、日本最古の眼鏡であるともいわれているからなのです。

いずれにしても、ザビエルはなぜ天皇への贈物を持参しなかったのでしょうか。日本における贈物の習慣をよく認識していなかったのか、何か彼なりの策略があったのか、それとも、ただ単に忘れてしまっただけなのでしょうか。

《参考文献》
『フロイス日本史』松田毅一・川崎桃太訳、中央公論社
『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄』岩波文庫
『眼鏡の社会史』白山晰也著、ダイヤモンド社

四つの目の伴天連(バテレン)に目を白黒させた日本人

フランシスコ・ザビエルが1551年に眼鏡を日本にもたらしてから後、眼鏡は各地の諸大名や領主層にヨーロッパの珍しい精巧品として愛用されていきまし た。しかし、当時の一般庶民にとっては、眼鏡などまったく無縁のものであり、ましてや南蛮人を見ることさえもまれでした。

そんな当時の庶民が、背が高く、 異様な服装を身にまとい、天狗のように高い鼻の上に、何やら怪しく光り輝くものをのせた紅毛碧眼の南蛮人をはじめて見た時の驚きようは容易に想像がつきま す。

それを示した一つのエピソードに次のようなことがありました。それは、ルイス・フロイスという人の『日本史』に記されているもので、 1570年に来日したフランシスコ・カブラルというイエズス会宣教師の一行が岐阜城下の視察のために織田信長を訪ねたときの出来事です。

カブラル師は近視であったため、岐阜城下の様子をよく観察しようと近眼用の眼鏡をかけていたのですが、それを目撃した庶民は、その着ている衣装にも大いに驚いたが、それとは比較にならないほどの驚きようで、「伴天連には目が四つある。

二つは我々と同じ位置に、他の二つはそれから少し離れたところにあって、鏡のように輝いていた」とまさに目を白黒させて腰を抜かさんばかりに驚いたというのです。そして、その噂はアッという間に広がって、彼らが岐阜の滞在から出発する日には、 城下の者ばかりでなく遠隔地などからも、その姿を一目見ようと彼らの宿泊所に大挙して押し寄せたといいます。

これはきっと、現代の私たちが突然、未知の宇宙人とでも遭遇したような衝撃的なことだったのでしょう。

《参考文献》
『フロイス日本史』松田毅一・川崎桃太訳、中央公論社 
『眼鏡の社会史』白山晰也著、ダイヤモンド社

米相場で大活躍した望遠鏡

眼鏡が日本に伝来したのは16世紀の中頃ですが、望遠鏡はいつ頃我が国に伝来したのでしょうか。望遠鏡はイギリス東インド会社の貿易船司令官として、 1613年に来日したジョン・セーリスから徳川家康、あるいは平戸の領主・松浦法印鎮信(初代)に贈られたものが最初であろうといわれています。望遠鏡は当初、異国からの幕府閣老などへの贈呈品として珍重されてきました。

その望遠鏡も元禄時代頃になるとだいぶ普及してきて、米相場や金銀相場に利用されるよ うになります。江戸幕府260年の基本は一石一両という米価でしたが、当時、箱根から東は金、西は銀相場で、江戸と大阪では毎日価格変動があったため、米や金銀相場で利益を上げるためには、基準に対しての騰落の程度をいち早く伝える必要があったのです。

その情報の伝え方は、要所要所に配置した連絡員が手旗信号による符牒で順次伝えていくというものでしたが、この符牒を確認するのに望遠鏡が使われたというわけなのです。しかし、天下の険・箱根八里だけは望遠鏡で確認というわけにもいかず、早飛脚が一里ずつ走って伝えていったそうです。こうして、江戸の相場はその日の内に、大阪に伝えられたといいます。まさに 「先んずれば人を制す」といったところで、情報合戦が繰り広げられていたのでしょう。

《参考文献》
『米と日本人』樋口清之、家の光協会 
『眼鏡の社会史』白山晰也著、ダイヤモンド社

徳川頼宣が望遠鏡で下界を覗き!

家康の第十子である徳川頼宣(1602-1671)は紀伊徳川家の始祖として有名ですが、彼の望遠鏡に関わる若い頃のエピソードが、安永1年(1772) にできあがった随筆『翁草』(おきなぐさ)の巻84「感入録」の中で紹介されています。それは「安藤帯刀望遠鏡をくだきて君を諌めし事」というくだりもので、内容は頼宣が家康からもらった望遠鏡に大喜びして、国許の天守閣に昇り、城下を行き来する人たちを覗いては楽しんでいたのを、ある時、家臣の安藤帯刀直次がその望遠鏡を敷居に打ちつけ粉々にしてから「太守るもの、下界を密かに覗いたりしてはならない」と諌めたというものです。

このエピソードは、頼宣の国許である紀伊の城中での出来事です。ここで疑問なのは、頼宣が紀の城主になったのは元和5年(1619)で、家康が亡くなったのは元和2年(1616) のことですから、もしも頼宣が家康から望遠鏡をもらったのだとすると、それは家康の死後のことになってしまいます。紀伊の城主になる前にもらったものとも考えられますが、この場合、もらった当初は大喜びしたとしても、その喜びが家康の死後少なくとも3年以上も継続するものとは到底思えません。ということは、頼宣は望遠鏡を家康の亡霊からでももらったのでしょうか。それとも、この逸話事態がフィクションなのでしょうか。

《参考文献》
『望遠鏡』広瀬秀雄、中央公論社 
『眼鏡の社会史』白山晰也著、ダイヤモンド社

伊賀の仇討ちと望遠鏡

赤穂浪士、曾我兄弟の仇討ちとともに天下三大仇討ちといわれる「伊賀越えの仇討ち」。これは寛永11年(1634)に、岡山藩士の渡辺数馬が姉の婿である荒木又右衛門らとともに、弟(父説もあり)・源太夫の敵、河合又五郎を伊賀の鍵谷の辻で討ち取ったというものです。浄瑠璃や歌舞伎で演じられる「伊賀越道 中双六」(いがごえどうちゅうすごろく)は、その事件を脚色したものですが、敵役の又五郎が彼を付け狙う数馬や又右衛門らを望遠鏡でうかがうシーンがあるそうです。望遠鏡のが日本への伝来は1613年で、「伊賀越道中双六」の初演は70年後の1783年のことですから、この頃には望遠鏡はかなり普及していたことも十分推測できます。しかし、実際に仇討ちのあった1634年は、望遠鏡の伝来からわずか20年あまりのことで、当時、幕府閣老も珍重する代物で、もらえる人もごく限られていましたので、そんな貴重な望遠鏡を河合又五郎までが持っていたとは、まず考えられません。したがって、この望遠鏡のシーンもス トーリーを面白くするため、他の要素とともに脚色された可能性が高いと思われるのですが・・・。

《参考文献》
◆『望遠鏡』広瀬秀雄、中央公論社 
◆『眼鏡の社会史』白山晰也著、ダイヤモンド社

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