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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第三回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第三回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は中国についてです。前回(第二回)はこちら

3 中国について

マルコポーロの旅行記
ここで少し中国についてふれてみたい。
なぜなら、しばしば主張された説に、ヨーロッパ人より中国人のほうが早く眼鏡を知っていて、眼鏡は中国からヨーロッパに伝えられたという考えがあるからである。

たとえば一九一五年に『古代中国のメガネ』を書いたラスムッセンもその一人である。

中国説の根拠として、第一に用いられる証拠は、マルコ・ポーロの旅行記である。
マルコ・ポーロが中国に旅行中、その老人たちが読書のとき、レンズを使っているのを見たという記述を根拠に、中国ではその時代すでに眼鏡が使われていたというものである。

そして、この話を発展させ、一二五二年にモンゴルに旅行したフランシスコ会修道士で旅行家のウィリアム・ドゥ・ルブラックが、その旅行中、中国人が眼鏡をかけているのを観察し、そのことを帰国後、ベーコンに話したことからベーコンの著書も生まれたと考えた学者もいた。

また、もっと大胆な発想をする人は、マルコ・ポーロの父(ニコロ・ポーロ)と叔父が中国を旅して、一二六九年にヴェネチアに帰ったとき、彼らが中国の眼鏡の話をするのを聞いて、それによりイタリアの眼鏡が誕生したという想像をしている。
これらの中国説の根拠は、いずれもマルコ・ポーロがこの時代に眼鏡が中国に存在したという証言をしていたという仮定に基づいたものである。

ところが、「中国に於ける眼鏡(靉靆<あいたい>)の起源について」を著した原田淑人(聖心女子大学教授)によれば、マルコ・ポーロの旅行記を調べられた結果、眼鏡に関する記述は見あたらなかったとのことであり、
また、眼鏡に関する陳述は『マルコ・ポーロの本』に記載されていないと、『ザ・ストーリー・オブ・オプトメモリー』の著者ジェームズ・グレッグ教授も書いている。

中国説の第二の根拠は、十三世紀初頭に書かれたといわれる『洞天清録』の中に「靉靆」(眼鏡のこと)についてふれたところがあり、したがって中国では、すでに十三世紀初めには眼鏡が存在していたという説である。
わが国の百科事典などには、今でもこの説をのせているものもある。

『洞天清録』は、陶宗儀(十四世紀中頃、元末明初の人)の『説郛』に採録されているものである。
このことについて、わが国で最初に本格的に眼鏡の歴史を研究された大西克知博士(第2章の1参照)は、大正八年に発表された論文(『日本眼科学会雑誌』二三巻二号の中で「帝国図書館蔵二百四十冊本ノ説郛ヲ借覧シ、
其第百四十二冊ニ出ヅル洞天清録ヲ閲セシニ、意外ニモ該十四字サヘ全然形影ナキコトヲ発見セリ。
余ノ失望ハ如何バカリナリシゾ。=中略=洞天清録ニ異本アリヤ」として、靉靆の文字を発見できず、結果として『洞天清録』を根拠とする中国説は否定されたことになるであろう。

中国、清代の学者で詩人であり、考証派史学者として名高い、趙翼(甌北)(一七二七~一八一四年)は、その著書『陔余叢考』(がいよそうこう)の中の巻三三に眼鏡の項をもうけ、以下のように書いている。
「古来未だ眼鏡あらず。有明に至って始めてこれあり。もと西域より来る。張靖之の『方州雑録』にいう、向に京師にありしとき、指揮胡籠の寓に於いて、その父宋伯公の得るところの宣廟の賜物にして、銭大の如き物二つあるを見たり。
その形色はなはだ雲母石に似て甚だ薄く、金相輪を以って廊し、これを紐す。
合すれば一となり、峡ば二となり、市中の等子匣の如し。
老人目を昏くして細書を弁せず、この物を張り双目に加うれば字明かにして大きさ倍を加う……
近頃また孫景章参政のところに於いて一具を見たり。これを試るに復た然り。
孫景章いう、良馬をもって西域の賈胡に易う。その名を僾逮という」と。

つまり、眼鏡(靉靆、僾逮、いずれもアイタイと読む)は、古来中国にはなかったもので、明代(一三六八~一六一五年)になって初めて西域よりもたらされた。
それはたいへん高価なものであり、外国商人と良馬一頭を交易しなければ入手することができなかった、ということになる。

趙翼は依拠した明代の史料は、張靖之(名は寧)の『方州雑録』が中心であったが、この他の史料として、明の慎懋の『華夷珍玩考』に、「提学副使潮陽の林公二物を有す、銭の形の如く、質薄くして透明なること硝子石の如く琉璃の如し。
色は雲母の如し。文章を看て目力昏倦して細字を弁ぜざる毎に此を以って目を掩えば精神散せず、筆画倍明なり。
中、絵絹を用いて之をつらね脳後に縛す。人みな識らず、挙って以って余に問う。余曰く靉靆なりと。
西域マラッカ国に出ず、或は聞く。公、南海の賈胡より得ると、必ず是れ疑なし。
後に張公の方州雑録を見ると此と正さに同じ」として『方州雑録』を追認している。

このほか、明代の文献として『大明会典』巻一〇七朝貢三には、アラビア国からの貢物として、さらには、明代の嘉靖二年以来、サマルカンドから定期的に献ぜられる貢物の中にも眼鏡があったという。
また同『大明会典』巻一一二の給賜二には、英宗の正統四年(一四三九年)にも、西域より「硝子遮眼」(番名矮納)を賜ったことが記されている。

ともかく、中国に眼鏡が普及し始めたのは、清朝に入ってからである。
当時、広東人が水晶をもってレンズを製作し、これが西洋のものより優れていたといわれる。
香港では、つい十年前まで、水晶レンズを作っていた。
水晶は縁起のよい、吉兆をもたらすものとして喜ばれていたのである。

いずれにしても、マルコ・ポーロが十三世紀に見聞したという供述を裏付ける中国側の史料は見つからない。(続く)

 

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