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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第三十五回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第三十五回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は内国勧業博覧会についてです。前回はこちら

3 内国勧業博覧会
近代眼鏡産業への起点
第一回内国勧業博覧会が東京上野公園で開催されたのは明治十年(一八七七年)の八月二十一日から十一月三十日にかけてであった。

ウィーン万国博覧会への参加を通じて、博覧会が従来の「珍品蒐集会」とか「美術品売立会」とは違い、産業の発展・貿易の振興にとって重要な手段であることを認識した明治政府が、内務卿大久保利通の建議に基づき、大久保を総裁とし、その構想・施設等はウィーン博を模範として開催したのがこの第一回内国勧業博覧会であった。
したがって、それは明治政府の殖産興業政策の一環として位置づけるべきものであり、近代産業発達史上に重大な意義を有するものであることはいうまでもない。

しかし、その出品人員一万六一七二人、出品点数八万四三五三点、出品価格二八万六六九七円、そして来観人員四五万四一八六人、総収入額二万七九二一円といった、当時としては最大規模で開催された博覧会ではあったが、内容的には政府の期待に応えられるようなものではなかった。
それは、西洋の文物、なかでもウィーン博を実見してきた政府委員にしてみれば、出品内容の前近代性は否定しがたかったのである。
たしかに、それは土屋喬雄氏のいうように「当時の我が国の産業発達の程度としては、……寧ろ当然であった」であろう。
しかし一方で「第一回内国勧業博覧会は、上からの『殖産興業』と下からの産業革命の意図との集大成であった。
……維新政府は政府で博覧会の開催そのことに殖産興業の一事業を完行するとともに、他方、ウヰンナ博の技術伝習の成果を下からの努力を完成するものとしてこの舞台に再演した」という評価のあることも忘れられてはならないだろう。

その意味で、朝倉松五郎のウィーン博における技術伝習が、近代的な眼鏡産業の発展にどの程度寄与したのだろうか。
以下、内国勧業博覧会へ出品された眼鏡類を見ながら、近代的眼鏡産業の発展の跡を見ていこうと思う。

第一回内国勧業博覧会
まず、第一回の内国勧業博覧会であるが、全国から集められた出品物は大きく六区に分類されて展示された。

眼鏡関係の出品物は第二区・製造物の第一六類・教育の機器として分類されている。
つまり、磁石・寒暖計・算盤と同じに扱われたのである。
第一回の内国博では、眼鏡だけでなく時計も同じように教育の機器として分類されているが、このような分類の仕方からも、当時は光学機器・精密機器といった近代的工業分野が未確立であったことを如実に示している。
当時の産業発達がどの程度のものだったか推し測られるであろう。

それはともかく、具体的に眼鏡関係の出品者・出品物点数をみていくと、以下のように一二人、二八点を数える。

浅野周蔵(元四日市町)二点
橋爪貫一(小石川大門町)一点
伊藤精通(四谷忍町)五点
佐野正範(東京日影町)一点
太田弥兵衛(通新石町)一点
川田仙太郎(麹町平河町五丁目)二点
髙橋安蔵(四谷伝馬町一丁目)三点
和田喜三郎(浅草町)一点
広江栄次郎(深川霊岸町)四点
古野村金次郎(南茅場町)一点
朝倉サヨ(四谷伝馬町一丁目)一点
山岸吉郎兵衛(四谷伝馬町一丁目)六点

これら出品者のうち賞状を与えられたのは、山岸吉郎衛門(鳳紋賞)、朝倉サヨ(同)、佐野正範(褒状)の三人である。

山岸吉郎兵衛は屋号「加賀屋」。
その出品物に対する評語には「製造佳ニシテ研磨精シ」とあり、その水晶の研磨技術が認められたものと思われる。
出品目録に「谷中日暮養福寺門前町栗原佐太郎浅草北新町都筑君貞外二名」とあるのは眼鏡枠を製作した下職人の氏名であろうか。

佐野正範の、その出品物にたいしては「環鋏繊細ニシテ四折スルヲ得ル 製作頗ル功熟ナルヲ観ル」といった眼鏡枠と廉価さが評価されている。

これら一二人の出品者の中でひときわ傑出していたのが朝倉サヨであった。
朝倉サヨは朝倉松五郎の未亡人である。

朝倉の出品は角形顕微鏡の一点だけであったことは、『出品目録』でも明らかであるが、おもしろいことに、審査評語には「顕微鏡ヲ初メ総テ西洋ノ機械ヲ以テ製造シ普通ノ眼鏡ニ至ル迄悉皆精巧其盛大ニ詣ルヲ期スベシ」とあり、出品していない物までが評価の対象とされている。
つまり、この評語から明治政府の朝倉に対する期待が奈辺にあったかをうかがい知ることができるのではないだろうか。

明治政府が朝倉松五郎に期待したのは、何といっても「西洋の機械」による眼鏡の製造であった。
たとえその機械が西洋から輸入されたものであっても、機械による製造であるところに意義があったのである。
それは製糸・紡績などの分野でとられた官営模範工場といわれる勧業政策とまったく同じ発想であった。
朝倉の「西洋の機械」によって製造したのは朝倉が最初であり、明治政府は、ウィーン万国博における技術伝習の成果を内国博覧会という場で明らかにしようとしたのある。

第二回内国勧業博覧会
第二回内国勧業博覧会は、明治十四年三月一日より六月三十日までの三ヵ月間、場所も第一回と同じ上野公園で開催された。
政府の内国博に対する期待は第一回以上のものであり、博覧会事務も内務・大蔵両省の所管となり、能久親王総裁以下、副総裁に松方正義・佐野常民・河野敏鎌を、その他審査部員には田中芳男。近藤真琴などウィーン、フィラデルフィア、パリ万国博を経験した技術官僚をあてるなど、政府の力の入れようはひとかたではなかった。
規模も第一回をはるかに上回り、出品人員三万一二三九名、出品点数三三万一一六六点、出品価格六四万七八六四円、そして来観人員八二万三〇九五名、総収入五万三四五三円というものであった。

出品物の区分は第一回と同じであったが、第四区機械部の審査報告に「是レ人民ノ機械ニ於ケル前会ニ比スレハ幾分カ其思想ト製作トヲ進歩シタル徴候ト謂フ可シ」とあるように、内容的には前回より格段に進歩したことがうかがえるのである。
それは、佐野常民の委嘱によって起草されたワグネルの「一八八一年内国博覧会報告書」においても認めらているのである。

眼鏡関係の出品者・出品物を見ていくと、次のように一四人、二二四点となっている。

髙橋清兵衛(芝三島町/眼鏡工・芝三島髙橋清兵衛)六点
山岸吉郎兵衛(日本橋区油町/緑工・浅草猿屋町都筑君貞他二名)三〇点
井原鑑次郎(神田区小川町/緑細工・神田区小川町遠山勝次郎/玉細工・四谷元鮫ヶ橋町加藤吉五郎)一一点
朝倉サヨ(四谷伝馬町一丁目/眼鏡工・四谷伝馬町一丁目朝倉さよ)七点
伊藤精通(四谷忍町/眼鏡工・四谷忍町伊藤精通)四点
小林久太郎(北豊島郡日暮里村/眼鏡工・北豊島区日暮里村田中六兵衛)一〇点
恩田泰助(神田区神保町/枠工・朝倉蔵前片町鈴木留次郎、芝愛宕一丁目遠山勝次郎/玉工・深川西元町鈴木金次郎)一七点
広部貞蔵(四谷元鮫ヶ橋町/眼鏡工・四谷元鮫ヶ橋町広部貞蔵)三点
赤堀松次郎(浅草須賀町/枠工・浅草片町鈴木富次郎/玉工・赤堀松次郎)三四点
田中太兵衛(北豊島郡日暮里村/玉工・北豊島郡日暮里村田中太兵衛)三五点
髙橋元義(深川町東仲町/玉工・豊島郡日暮里村栗原佐太郎)一点
和田弦之助(東区横堀一丁目/玉工・東区横堀一丁目和田弦之助)三八点

これを見ると、前回に比べて出品者では二人増加しているだけであるが、出品点数で前回の一〇倍近くにのぼっている。
それだけ製作技術の面で進歩したといえるのであろう。
幸い第二回内国博覧会の「出品目録」には、出品者だけでなく、眼鏡工・枠(縁)工の住所・氏名まで掲載されているので、それらを見ていくと当時の顕微鏡などを含む眼鏡製作にかかわるいくつかの特徴に気づく。

まず出品者であるが、前回も出品者として名を連ねていたのは山岸吉郎兵衛・朝倉サヨ・伊藤精通の三名だけで、あとの一一人は今回新たに出品した人たちである。
前回からわずか四年しかたっていないが、その間の変化の激しさを想像させる数字である。

ところで、出品者一四人のうち九人は眼鏡工(玉工)である。
しかし、朝倉サヨに対する審査評語に「適宜ノ機械ヲ使用スルヲ以テ研磨宜シキヲ得前面些の瑕疵ヲ見ハサス頗ル嘉ス可シ」とあるように、今回も機会による眼鏡製作を行ったのは朝倉一人であったらしく、朝倉にのみ褒賞を与えられている。
ということは、他の眼鏡工八人は旧来の手工業技術によるレンズ研磨を行っていたわけで、政府の期待する機械製作ではなかったようである。

九人の眼鏡工以外の出品者であるが、岩崎宗吉は明治十八年発行の『東京商工博覧絵』に「眼鏡問屋」として登場している。
店は浅草区黒船町十五番地にあり、屋号は「鶴屋」である。
『博覧絵』を見ると磁石類・寒暖計を扱ってきたことがわかる。

第三回内国勧業博覧会
第三回内国勧業博覧会は明治二十三年四月一日から七月三十一日までの四ヵ月間、場所も前回、前々回同様上野公園で開催された。
今回の出品者七万七四三二人、出品店数一六万七〇六六点、出品価格七五万一三五〇円という規模は出品点数を除けば前回を大幅に上回っている。
ただ出品点数が前回三三万一一六六点に比べて半減していることは、出品者の資格や数量に制限を加えたためであろう。

眼鏡関係の出品は、第五部の「教育及学芸」部門で、さらに細かくいえば、「第一類 教育及学術ノ図書、器具」の「其十三 眼鏡、望遠鏡、顕微鏡其他視学器械及び其属品」として扱われている。

そこで眼鏡関係の出品について見ていくと次のとおりである。

今回の特徴は、これまでの出品者が東京だけに限られていたのに対し、今回は大坂からの出品者がいたことであろう。
しかし、出品者の全体では、東京六人・大阪九人、合わせて十五人と前回に比べて一人増加しているものの、東京だけに限っていえば一四人から六人へと激減しているのである。
それは「時運ノ進歩ニヨリ妄リニ出品スルノ弊ハ漸ク減シタ」ためであろうか。

以下、出品者と出品点数を列記する。

小篠新太郎(京橋区本材木町三丁目)一〇点
勝山権七(赤坂区裏町一丁目)七点
村田長兵衛(日本橋区本町一丁目)四四点
朝倉佐代(四谷区伝馬町一丁目)二四二点
田中彦太郎(武蔵国北豊島郡日暮里村)二五点
髙木勘兵衛(神田区小川町)二点
大島佐七(大阪市南区順慶町三丁目)八点
出原儀右衛門(大阪市東区南九宝寺町)四七点
多田吉兵衛(大阪市東区北久太郎町)二八点
梶彦兵衛(大阪市北区天神橋筋一丁目)五点
梶本直次郎(摂津国東成郡生野村)二一点
辻本嘉平(河内国渋川郡巽村)三点
川岸武平(同村)四点
辻本新造(同村)一点
長尾彦太郎(同村)二点

以上明らかなように、出品点数で朝倉(サヨ。佐代と表記)が群を抜いていただけでなく、内容的にも「亡夫ノ意志ヲ継キ倍々其業ヲ振起シ製品精確ニシテ其技術極メテ微行其有功最モ嘉賞スベシ」として「一等有功賞」を与えられるなど、他を圧倒していたことがわかる。

朝倉に次いで評判の高かったのは村田長兵衛である。
これに対し、今回の博覧会に初めて登場した大阪からの出品はあまり芳しくなく、価格が廉価であるだけで、材料・構造ともに不完全な不良品との烙印を「審査報告書」で押されている。

第四回内国勧業博覧会
第四回内国勧業博覧会は明治二十八年四月一日から七月三十一日までの四ヵ月間、場所も京都で開かれた。

もともと京都は明治四年の京都博覧会以来、京都博覧協会社主催による博覧会が明治十八年まで毎年開かれていたという伝統をもっている場所であった。
今回は遷都一一〇〇年を記念する事業として、日清戦争による中止論をもしりぞけて開催されたのである。
それだけ京都の勧業博に対する熱意のほどが理解される。

今回の出品人員七万三七八一人、出品点数一六万九〇九八点、出品価格九四万八五七八円という規模は、出品人数で三六〇〇人余の減少をみたが、他はわずかながらも増加している。
しかし、総体として前回の規模を大幅に上回るものではなかった。

今回の出品区分は前回と同じで、眼鏡も同様に「第五部 教育及学術」の「第三十九類 学芸」の「其六 望遠鏡・顕微鏡其他視学器」となっているが、出品者によっては「第四十類 医学及衛生」として出品している場合もある。
眼鏡関係の出品を一覧してみると次の通りである。

東京(第四十類) 
髙木勘兵衛(神田区小川町)八点
宮田藤左衛門(京橋区銀座三丁目)五点
万木九兵衛(本郷区本郷三丁目)六四点
岩崎宗吉(浅草区黒舟町)一七点
京都(第三十九類)
向与兵衛(下京区六角通御幸町西入八百屋町)六点
大阪(第三十九類)
西村七郎兵衛(東区平野町五丁目)二二点
多田吉兵衛(東区北久太郎町四丁目)三六点
覚道栄治郎(北区常安町)三〇点
長尾彦太郎(河内国渋川郡巽村)七点
辻本嘉平(〃)五点
川岸武平(〃)一二点
山梨(第四十類)
土屋宗幸(甲府市桜町)一点
土屋松次郎(甲府市柳町)一点
一之瀬熊次郎(〃)一点
土屋愛造(甲府市三日町)一点
石川(第四十類)
大塚次吉郎(金沢市馬場五間町)二点

出品者・出品点数でいえば前回をかなり下回っている。
東京の出品者は、眼鏡を「医用」に共すべきものという立場で出品したのに対し、京都・大阪の出品者は「学芸」に属するものとして出品しているが、それは眼鏡に対する考え方の違いをあらわしているように思える。
つまり、東京が第四十類に出品したのは、従来から政府が眼鏡を医療機器あるいは学術上の器具として、その機械による精密な製作を期待してきたことを踏まえての出品だったのに対し、京阪の出品は「玻璃製或ハ金属精工業品」としての出品だったことがうかがえる。

しかし、「審査評語」には「医用ニ供スヘキ眼鏡ハ至テ少ク又応用スヘキ顕微鏡ハ一モ之アルヲ見ス」とあって、出品内容は政府の期待に応えることのできないものだった。
それは、褒状を与えられた向(京都)。多田(大阪)・覚道(大阪)に対する評語に、「携帯ニ便ナリ」、「価亦簾ナルヲ以テ」、「其双ノ伸縮自在ニシテ用途多キを以テ」とあるように、技術の良し悪しが評価の基準とはなっていないことからもわかる。

今回内国博に特徴的なのは、出品者が東京や大阪だけでなく、山梨、石川からもあったことである。
しかし、山梨の出品は水晶眼鏡であり、それも審査評語にいわれているように、屈折係数は鏡用硝子とかわるものではなく、その効用は硝子眼鏡とかわらないとされ、貴重な水晶を使うことを批判されている。

第五回内国勧業博覧会
第五回内国勧業博覧会は、明治三十六年大阪で開かれた。
日本に工業制工業を導入し、資本主義を定着させるために開かれた内国博であったが、日本の工業を成熟させることによって輸出の促進を図ろうとする目的がこの第五回内国博に課せられていた。
したがって、出品者一一万八一六〇人、出品点数二七万六七一九点と前回を大きく上回って、空前絶後の規模となったのであるが、イルミネーションを用いるなど、博覧会自体がお祭り的になったのも今回の特徴であった。

今回は以上のような博覧会の目的の変化、規模の拡大ということもあって、出品分類も前回まで農業・園芸・林業が一部門だったのが、農業・園芸と林業の二部門に分かれ、工業部門も細分化され、化学、染織、機械と三部門となっている。
それが、日本の産業の発展を表していることは明らかである。
眼鏡についていえば今回も第九部にあることは変わっていない。

出品者と出品点数をあげると、次のとおりである。
(大阪)
岩橋幸治郎(南区心斎橋)六点
岩本房吉(南区塩町)六点
橋本清三郎(東区久太郎町)九点
西村七郎兵衛(東区平野町)六点
川崎留郎(西区京町堀)九点
川崎弥助(東区九宝寺町)九点
梶彦兵衛(北区天神橋筋)六点
覚道栄次郎(北区常安町)二二点
多田吉兵衛(東区北久太郎町)九点
長尾彦太郎(中河内郡巽村)三点
上村重兵衛(東区瓦町)二三点
宮田定七(南区塩町通り)九点
渋谷那之助(東区北浜)五点
平井勘治郎(東区道修町)六点
平井善兵衛(東区順慶町)九点
盛岡孫治郎(西区新町)六点
(京都)
向与兵衛(下京区六角通御幸町西入)二〇点
俣野弥三郎(下京区大橋東入)一〇点
(愛知県)
津田庄三郎(名古屋市玉屋町)一四点
牧野市左衛門(名古屋市鉄砲町)一一点
森嘉七(名古屋市栄町)一〇点
(東京府)
岩崎宗吉(浅草区黒船町)九点

これを見ると、出品者についていえば、大阪(一六名)、京都(二名)に集中しているのは当然としても、東京からの出品者が岩崎宗吉一人であるのは開催地が大阪であったためだろうか。

しかし、今回は愛知県から三名、三五点の出品が見られ、そのうち牧野市左衛門の出品した幻燈先レンズには三等賞が、眼鏡には褒状が与えられている。
それは、今までの東京・京阪を中心とした眼鏡業が地方にまで拡大していったことの証左といえよう。

審査の結果、東京府・岩崎宗吉の円柱鏡が二等賞を受けているが、それは「審査報告」に「其顧問ノ資格工場ノ大サ及出品ノ品質ヨリ考フルニ我ガ国レンズ類製造者中ニテハ最上位ヲ占ムル者ナルヘシ」とあるように、岩崎が帝国大学教授河本重次郎等を顧問としてその製造を行ってきたことに対する評価となっている。
岩崎は第三回内国博において、大規模の向上のゆえに政府から厚い期待をよせられていた人物だけに、ようやく期待どおりの成果をあげたということであろう。
岩崎に次いで愛知の牧野市左衛門の眼鏡が三等賞を与えられているが、「其工場ノ微々タル等未タ以テ学術界ノ信用ヲ博スルニ足ラス」と審査報告書に記載されている。

やはり全体的に見ると、学術用の精密な機械を日本の工場でつくることの困難さが際立っていた。

眼鏡製造業についても、次のような評価がなされている。

まずレンズについては、

例ヘハレンズ類ノ如キ稍精巧ノ出品アルカ如クナレトモ未タ以テ世ノ信用ヲ博スルに足ラス其製造場ヲ一見スルに拾坪ニモ足ラサル一小屋ニ旋盤一個ヲ据エ置キ場主一人カ則チ職工ノ総計ニシテ幻燈レンズモ製スレハ顕微鏡モ作ル、是カ日本ノ一大都府中唯一ノレンズ製造家ナルカト思ヘハ実ニ慙汗赤面ノ至リナリ
〔「第五回内国勧業博覧会第九部審査報告」(『明治前期産業発達史資料 勧業博覧会資料』五七、明治文献資料刊行会。昭和四十七年)〕

そして、眼鏡については、

眼鏡ノ出品ハ賞スヘキ者少ナシ価格驚ク可ク簾ナルモ粗悪用ニ堪ヘサルモノアリ或ハ製作精巧ナレトモ原料ノ撰択宜キヲ得スシテ実用ニ適セサルモノアリ且ツ出品者中枠ノ品質及外観ノ製作ヲ主眼トシ眼鏡固有ノ目的ヲ忘ルルモノ多シ枠ニ精巧ナル彫刻ヲ施スカ如キ是レナリ之ヲ要スルニ多数出品者ノ目的ハ実用ニ重キヲ置カス主ニ装飾品トシテ批評ヲ乞フモノノ如シ果シテ然ラハ本品ハ製作工業部ニ於テ審査スヘキモノニシテ眼科医ハ只之レニ陪スルニ止マルヘキモノナランカ
〔同前〕

つまり、「我ガ国学術上器械器具製造ノ程度ハ実ニ幼稚ト云ハサル可ラス」というのが政府の結論であった。
その原因を「審査報告」によれば旋盤一個・工場主一人によって幻燈レンズから顕微鏡までつくるという家内工業、これが製品の粗悪をもたらす最大原因とされたのである。

殖産興業政策の帰結
第一回内国博依頼の殖産興業政策は、このような零細な家内工業をつくることではなかったはずである。
政府が描いたのは、「一工場ニシテ数十ノ博士学士ヲ聘用シ百千人ノ職工ヲ使役シテ精測機械ヲ製シ以テ学術ノ進歩ヲ促カシ国威を海ノ内外ニ輝カス」資本主義的な大規模工場であった。
しかし現実は、零細工場の大海の中にあって政府の期待する大規模工場の出現はまだ見えていない。
今後、大学・専門学校が増加し、需要も増えればそれに対する供給も増えるであろうとの期待を込めて「審査報告」は終わっている。

以上、五回の内国博覧会を通じて眼鏡産業がどのように政府の殖産興業の下で発展してきたかを見てきた。
結論的にいえば、朝倉松五郎などの先駆者的な役割はそのまま政府が期待する資本主義的大規模工場の成立に結びつくわけではなかった。
彼がヨーロッパからもたらした機械・技術は、その資本力の脆弱により大規模工場を組織するまでにいたらなかった。
むしろその技術は、旧来の職工の手工業技術に取り込まれて、広汎な零細工場を生み出していったといっていいのではないだろうか。(続く)

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