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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第二十四回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第二十四回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は滝沢馬琴と眼鏡についてです。前回はこちら

第7章 近代文芸における眼鏡の諸相
1 滝沢馬琴と眼鏡
馬琴の失明
近代文芸における眼鏡の諸相というと、私はまず、滝沢馬琴の晩年の姿を思い出さずにはいられない。

馬琴が晩年になって両眼を失明し、『南総里美八犬伝』の第九輯巻四十六の途中から、息子宗伯の妻おみちへの口述筆記に頼らざるをえなかったことはよく知られた事実である。
その労たるや並大抵のものではなかった。
俗字さえ満足に知らず、まして漢字や雅言はいうまでもなく、はてはテニヲハさえ心得ぬ女子に、難解な文字・文章を口述筆記させるのだから。
結局、馬琴が一字ごとに字を教え、一句ごとに仮名遣いを教えていく有様であった。
盲た義理の父の口述に必死のおもいでついてゆこうとする嫁の姿に胸を熱くするのは私だけではないだろう。

馬琴の右眼に初めて異常が起こったのは、文政十三年の秋、八、九月頃である。
馬琴にいわせれば、長い間、冬、春ごとに机の右に火鉢を置いて執筆を続けたために、右眼が乾いてしまったためだという。
しかし、このときはあまり頓着せずにいたところ、天保五年二月になって突然病勢が悪化し、やがて失明していく経緯が『著作堂雑記』に次のように記されている。

天保九戊戌春続草第三十七
吾壮年の昔より、四十余年来、日夜並に読書に眠気を労らしたる故に、この三四年このかた眼かすみて、遂に不自由になりぬ、初め文政十三年巳の秋、八九月の頃にやありけん、一朝起出しに、右の眼見えずなりぬ、いぶかりて、故児に見せしに、瞳子少し開きたり、眼薬を用ひようとすすめて、家方の口薬を半年ばかり煎用したけれども効なし、その時吾おもへらく、是は年来冬春毎に、高き火鉢を机の右に置きし故に、右眼かはきて瞽したるなるべし、譬ば老樹の片枝枯れたる如し、薬力の及ぶ所にあらずといふて、其後は薬を用ひず、初めは左一眼にて硯の内見えず、不便なりしが、後にはなれてさのみに思はず、猶日夜著述の為に、眼力をつくしたるは、故児琴嶺長病迄、死後に至りては年々費用多く、旦暮に給するに足らざれば、己むを得ず毎夜亥の時までは、机を離るることなかりき、かくて四谷へ移住の頃より、左目も年々かすみしに、天保九年の頃より眠気弥衰へて、書も見ることを得ず、是れ眼鏡の宜しからぬ故ならんと思ひて、種々高料の眼鏡を買求て、一つもあふはなかりき、しかれば眼鏡の故あらず、眠気の衰へ果てたる故なり、かくて天保十年丁亥冬十二月中旬より、左目甚しく曇りて、奈となく意事得ならず、吾今かく物も筆を休めては、これを見えわかざるなり、かかれば著述も不如意にて、旦暮に給するに足らずなりぬ、孫らが為に歎くにあまりあれども、今さらにせんかたなし、よりて思ふに、八年己前右眼の瞳子の開きしは、数十年日字細字を綴りし労れにて、瞳子の裂けしなり、其頃かく心づきなば、夜は休みて左目を養ふべかりしに、思ひ浅くて、多年来火鉢の火気を受けし故に、右の眼のかはきたる故なりと思ひしはおろかなりき、録してもて吾曹たる者のいましめとす、あなかしこ、〔庚子(天保十一年)春二月廿九日記〕
〔『著作堂雑記』(『曲亭遺稿』国書刊行会、明治四十三年)〕

もともと馬琴の一家には眼質の悪い人物が多く、祖母も眼病を患い、妻のお百も眼疾があったという。
息子の宗伯は医者であったが、自分自身病弱で、弱冠のころより眼気薄く、根を詰めて書見すると、眼の中に赤曇がでるという状態だったという。
そこで、宗伯は「然れども止むを得ず細書を読み亦古画を写す時は、年十九歳より眼鏡を用いたり」(『著作堂雑記』)といった有様であった。
じつは、馬琴も左眼が衰えていくのに対して眼鏡を使ってそれをカバーしようとしていたことが引用文中からうかがえるであろう。

このほか、『馬琴日記』にも、眼鏡にかかわる記事がいくつか見られるのであげておこう。
たとえば天保十一年二月十五日の条である。

林荘蔵、約束の厚眼鏡持参。代金壱両一分の由也。
しばらくかけ見、可伸旨、申聞け、則、預りおく。
然れども、思ふに似ずして宜しからず。
衰眼実にせんかたなし。
〔『馬琴日記』第四巻、中央公論社、昭和四十八年〕

これはさきの『著作堂雑記』の文章が書かれる半月前である。
代金一両一分といえば、当時の滝沢家の家計からすれば、けっして安くはない値段であろう。
しかし、いっこうに見えるようにはならなかったわけで、結局あきらめの境地がさきの『著作堂雑記』の一文となったのであろう。

ついで天保十二年の正月二十三日の日記に

お菊所望に付、ふる目鏡一枚、遺之。
是は、天保の始めまで、我等年久敷用ひたりしに、誤りて其一玉を打ち破りしかば、別に安目鏡の玉を入置せし也。
右の目見えざれば、一玉は飾りのみなればなり。
此目鏡、お菊の合候由なれば、とらせたるなり。
〔同前〕

とある。お菊とは馬琴の末の妹である。
「我等」とあるところを見ると、この「ふる目鏡」は、馬琴だけでなく、息子の宗伯なども使用したのであろうか。

近世文芸と眼鏡の「まえがき」としては、暗いエピソードである。
そして、眼鏡が馬琴本人にはその効果をあまり発揮していない。
しかしながら、この当時眼鏡が一家に一個(というより、この場合は一族に一個)という使われ方をしていたことがうかがわれる史料である。
江戸時代の文人の中には、馬琴以外に眼鏡のご厄介になった人もいたであろう。
そういう人たちが、随筆や小説の中で、眼鏡について断片的にでもふれていないだろうか。
そこで以下、近世文芸にあらわれた眼鏡の諸相について見ていこうと思う。(続く)

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