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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第十二回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第十二回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は眼鏡の輸入数量についてです。前回はこちら

3 眼鏡の輸入数量について
鎖国直前の南蛮貿易
眼鏡、望遠鏡が将軍をはじめ、幕府閣老への贈答品として、あるいは彼らからの注文品として、大いに珍重されたことはすでに見たとおりであるが、ここでは、これら眼鏡、望遠鏡が年間どのぐらい外国から輸入されていたのか明らかにしておきたい。

一五七〇年(元亀元年)の長崎港の開港は、南蛮貿易を発展させるきっかけとなった。
それまで、ポルトガル船は平戸・横瀬・福田・口之津と貿易港を移してきたが、ここに、定期的寄港地として、さらに一五八〇年(天正八年)にはイエスズ会の寄進地として長崎を獲得し、安定した貿易活動を展開することになる。

ところで、このポルトガル船による南蛮貿易によってどのような商品が日本へもたらされ、その中で眼鏡はどのぐらい船載されていたのだろうか。
ポルトガル船による南蛮貿易といっても、その実態は日中間の中継貿易である、日本が欲する中国の物産をもたらすだけであった。
つまり、日本が欲する最大の商品は生糸および絹織物であり、その対価として、日本の銀がマカオに運ばれるというのが南蛮貿易なのである。
しかし、残念なことにポルトガル人は、彼らの貿易についてその数量的記録を残していない。

また、貿易の斡旋にあたっていたイエスズ会宣教師たちも、断片的に貿易についてふれることはあっても、まとまった貿易記録を残してはいない。
むしろ、ポルトガル貿易についての記録は、かえって商売敵であったオランダ側の記録である『平戸オランダ商館の日記』(永積洋子訳、岩波書店)の一六三六年の項に見ることができる。
ただし、時期的に十七世紀のものであり、しかも、ポルトガル船の日本渡航が全面的に禁止される直前のものではあるが、ともかく、ポルトガル船による南蛮貿易の実態を示す貴重な史料といってよいだろう。

船載された商品のほとんどは、生糸および絹製品であるが、注目すべきは、その中に鼻眼鏡一万九四三五個が含まれていることである。
その販売価格は、一七一四テール八マース二コンデリンであるから、この年の全売上高に対して一パーセントにも満たない少額取引でしかないが、それよりも、約二万個近い眼鏡が輸入されているという事実に驚かないわけにはいかない。

しかも、このことは、次に見るように一六三六年だけではない。

一六三七年(寛永十四年)には、鼻眼鏡三万八四二一個(四四三テール四マース九コンデリン)、翌一六三八年(寛永十五年)には、鼻眼鏡四〇五個(六テール五マース)が輸入されている。
一六三八年は、前年度に比べて急激に数量が減少しているが、その理由は明らかでない。
ただ、翌一六三九年(寛永十六年)は、最後の鎖国令によってポルトガル船の来航が全面的に禁止された年であり、そのことと無関係ではあるまい。
ちなみに、総販売価格も三六年、三七年に比べて半減しているのである。

鎖国直前という緊迫した状況の下で、これだけ多量の眼鏡がポルトガル船によって輸入されていたことは驚くべきことであるが、その数量の多さは、眼鏡が、幕府閣老など特権階級のみならず、かなり広汎に普及していた可能性を思わせる。

この他、鎖国以前については『イギリス商館長日記』の一六二一年(元和七年)三月十四日の項に、断片的ながら次のような記事が見られることも指摘しておきたい。

また私は今日オスターウィック君から眼鏡入りの箱を受領した。
そのなかには以下のものが入っている。
すなわち一三ダースは完成品の眼鏡。
四ダースと片眼分が壊れたもの三個、しかもこれらの大部分は玉だけ。
総べて一七ダースと三箇の眼鏡が受領された。
〔『日本関係海外史料 イギリス商館長日記』訳文編之下、六四〇頁、東京大学出版会、昭和五十五年〕

これは、眼鏡を倉庫より搬出し点検した記事であり、これらの眼鏡が、その後どのように使われてたのか明らかではない。

平戸のイギリス商館が開設されていたのは、一六一三年(慶長十八年)から一六二三年(元和九年)の十年間という短期間であったこともあり、このほかに、眼鏡に関するまとまった記事は見あたらないようである。
これに対し、一六三九年(寛永十六年)の対日貿易はポルトガル船に代わって、もっぱらオランダ船と中国船によって、その穴を埋めることとなるが、これによって、眼鏡はどのくらい輸入されていたのだろうか。

日蘭貿易と眼鏡
オランダ貿易について、その取引商品・数量・価格などを明らかにする史料としては、長崎オランダ商館の取引帳簿があるが、残念ながら翻訳されていない。
そこで、ここでは、『長崎オランダ商館の日記』(村上直次郎訳、岩波書店)に出てくる断片的な数量記事によって、見ていくことにしたい。

まず、一六四三年八月十日の条に、ズワーン号、メールマン号、オランジェンボーム号の入港記事があり、そのうち、ズワーン号の積荷目録に「進物用鼻眼鏡一六〇箇。遠眼鏡、虫眼鏡等珍奇の品」の記載が見られる。

そして翌年、一六四四年八月三十一日の条には、台湾から来航したフライト船ベール号の積荷に、バタビアからの積荷として「遠眼鏡六箇」が見える。
おそらく、これはすべて進物用であろう。

残念ながら『長崎オランダ商館の日記』に見える、オランダ船による眼鏡の輸入にかかわる数量記事は、以上の二例だけである。
しかし、その二年以外には、眼鏡が輸入されなかったわけではもちろんない。
たとえば、一六四九年十月八日、あるいは、一六五二年一月三十一日の次の記事を見ればそれは明らかであろう。

八日 今度着いた遠目鏡及び眼鏡を調べたところ、当地で非常に熱望している高価なものが多くこわれ、星ができまた曇っていた。
故障は荷扱の悪いためではなく、水晶が長い間静かに置いてあったためと思われた。
今後は水晶のは止めて、普通ガラスの眼鏡の最良なものを送るべきであろう。
当地ではそれで相当売れるであろう。
〔村上直次郎訳『長崎オランダ商館の日記』第二輯、二五九頁、岩波書店、昭和三十二年〕

三十一日(十二月二十一日) 荷物を悉く解いて、諸公に贈る遠目鏡と眼鏡を陳列したところ、眼鏡の一部は硝子に傷があり、また先年筑後殿が自用のため注文された通りのものは一つもないので、眼鏡は多数長崎に着いたが、粗品で注文通りのものがなかったので、前館長帰航の際送り返した。
遠からず良い品が送られるであろうと言って、同公のも届けぬことにした。
これは若し一つだけ届けたらば、我が国では良い眼鏡を製造することができぬからと思われるか、それを取寄せる好意がないゆえと疑われる惧があるからであった。
午後、通詞が眼鏡と遠眼鏡を筑後殿邸に持参したが、同公はこれを見る暇がなく、数人の大官に赤葡萄酒数ガンタン(一ガンタンは約六キログラム)ずつ売渡すよう頼まれた。
〔同前第三輯、一〇四頁、岩波書店、昭和三十三年〕

これらの記事を見ると、オランダ船によって輸入される眼鏡は、高級品に限定されていたように思われる。
それは、一六五二年の場合には粗悪品を返送までしているように、日本では、幕府閣老への贈り物をはじめとする高級品が必要だったからであろう。
また、それらの眼鏡が、オランダ本国での製造品であったこともわかる。

以上のように、『長崎オランダ商館の日記』に見える輸入記事は、ほんのわずかであった。
村上直次郎氏の翻訳になる『長崎オランダ商館の日記』は一六五四年十月で終わっており、その後の日蘭貿易における眼鏡の輸入についての手がかりは、ここで途切れてしまう。
その後のオランダ船による眼鏡の輸入については、長崎オランダ商館の取引名簿を調べられた山脇悌二郎氏によれば、輸入しない年がほとんどないほど、毎年のように輸入されていたという。

多くは、左右二つレンズのつるなしの、鼻眼鏡の老眼鏡であり、多い年には五〇〇個以上も輸入されていた。
虫眼鏡も読書用に用いられていたので、かなり輸入されていた。
初めは「しらみのめがね」(luijis_glas)といっていたのが、後には「読書用のめがね」(less_glas)と書かれるようになったという。
「しらみのめがね」とは、オランダ船の船員たちが、体についたしらみをとるのに用いたところからつけられた名称らしい。

このように鎖国以後も、眼鏡が大量に輸入されていたことが理解できるのである。(続く)

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