News Releaseニュースリリース

連載
本部

【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第四十一回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第四十一回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回はステータスシンボルとしての眼鏡についてです。前回はこちら

2 ステータス・シンボルとしての眼鏡
明治二十年代における眼鏡の流行について述べたが、眼鏡がこれほどまでに流行するというのは、ただそれが、文明開化のシンボルというだけではないだろう。
同時に、眼鏡というものがステータス・シンボルであったからだ。

ところで、明治の代表的な時局諷刺習慣雑誌『団団珍聞』は、その最盛期である明治十二年頃には、毎週一万五〇〇〇部も発行されていたという。
その頃の漫画に、眼鏡をかけた税務関係の官員を描いたものがある〔図12-2〕。

12-2
「官員」とは明治時代における官吏、役人の呼称である。
明治初年に刊行された『開化問答』には「……月給取り官員様と聞けば、だれもかれもみな平身低頭して、……官員様はまた人民をもって自己の家に飼える犬猫同様に心得……」という記述がある。

ここには、官員の絶対的優位が示されている。
官員は、安定した生活が営める棒給生活者であり、庶民の憧れでもあった。
また、官員には徴兵が免除される特典もあった。
多くの人びとが、このような官員を表徴する眼鏡という小道具だけにでもあやかりたいと願ったのも不思議ではない。
ステータス・シンボルとしての眼鏡を官員のそれに見た。

官員以外、どのような階層あるいは職業の人びとが眼鏡をかけたのであろうか。
まず、漫画や絵画など視覚的史料によって見てみよう。
以下、『ワークマン日本素描集』『ビゴー日本素描集』『風俗画報』『東京パック』などの資料を中心に見てみる。

漫画と絵画に見る眼鏡の日本人
まず、幕末から明治前期の日本人を描写した二人の外国人画家ーイギリス人チャールズ・ワーグマンと、フランス人ジョルジュ・フェルディナン・ビゴーの作品を見てみよう。

『ワーグマン日本素描集』
ワーグマンは『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の特派記者として来日し、生麦事件、薩英戦争、四国艦隊下関砲撃事件など歴史的事件を描きヨーロッパに送った。
また、居住地の外国人のために日本最初の漫画雑誌『ジャパン・パンチ』を創刊したことでも知られている。

考察の材料とする清水勲編『ワーグマン日本素描集』(岩波文庫、一九八七年)は「日本スケッチ帖」「ジャパン・パンチ」「特派美術通信員の眼」の三章から構成されている。
このうち眼鏡の人物が描かれているのは「ジャパン・パンチ」と「特派美術通信員の眼」である。

「ジャパン・パンチ」は先に述べたように一八六二年(文久二年)七月、横浜居住地で創刊された月刊漫画雑誌『ジャパン・パンチ』に掲載された作品である。

『ワーグマン日本素描集』は、『ジャパン・パンチ』にのった代表的な日本人諷刺画三七点を「新文明との接触」「学生」「女性」「目がねと出っ歯」「日本の印象」の五項目に分類して紹介している。

この中で眼鏡の日本人が描かれているのは「学生」と「眼鏡と出っ歯」〔図12-3〕、「日本の印象」である。

12-3
明治八年の日露における樺太・千島交換条約をテーマとするこの絵には、眼鏡と出っ歯の日本側代表が描かれている。
編者の清水氏は「世界の漫画家が日本人を描くのに『眼鏡と出っ歯』を思い出すのは、意外とこの絵にえいきょうされているのでは」と推測している。

『ビゴー日本素描集』
フランス人画家ビゴーは、浮世絵の世界に魅せられて来日した。
陸軍士官学校のお雇い画学教師を勤めた後、各種の画集を刊行して生活の糧とした。
明治二十年二月創刊のフランス語による時局諷刺雑誌『トバエ』は、民権派を弾圧する警視総監、三島通庸や内相山県有朋を諷刺したり、治外法権などの条約改正に時期尚早と反対した。ビゴーが条約改正に反対したのは、治外法権がなくなると、新聞史条例や出版条例の規制を受け、出版の自由がなくなるからである。

さて、考察の対象とする清水勲編『ビゴー日本素描集』(岩波文庫、一九八六年)は全五集の「日本人の生活ユーモア」をもとに構成されている。
この「日本人の生活ユーモア」は、先の時局諷刺雑誌『トバエ』などに掲載された作品から、それぞれのテーマに相応しい絵を再録したものである。
日本人生活のスケッチである、シリーズ「日本人の生活ユーモア」は、第一集「東京・神戸間の鉄道」〔図12-4〕、第二週「兵士の一日」、第三集「芸者の一日」〔図12-5〕、第四集「娼婦の一日」〔図12-6〕、第五集「女中の一日」からなる。
このうち、第五集「女中の一日」を除いた各集に、眼鏡の日本人が描かれている。

12-4 12-5 12-6
『風俗画報』
次に、明治二十二年創刊された『風俗画報』(東陽堂)のバックナンバーを繙いてみよう。
同誌は、欧米グラフ雑誌の影響を受け、日本で初めて誌名に「画報」の文字が用いられた雑誌である。
『風俗画報』は大正五年四月まで二七年間にわたって刊行された。
その間、編集方針が変ることもあったが、基本的には誌名どおり、日本各地における、古今の世相風俗を紹介した。
眼鏡が登場する画は次に列挙した通りであるが、代表的なものを紹介していこう〔図12-7~9〕
『風俗画報』に描かれた眼鏡の人物は、ワーグマンやビゴーとは異なる。
漫画が持つ諷刺がないし、また、画家の主張もない。
したがって、動物に眼鏡をかけさせるような極端な誇張も存在しない。
その描かれた人物もまったくの市井の人が描かれているといってよいだろう。
とはいえ、裕福な紳士が多く描かれている。
他は身なりの整った老人、ご隠居、巡査、書生、女子学生、女教師、学者、医者などである。

12-712-812-9
『東京パック』
『東京パック』は明治三十八年、『時事新報』の漫画記者であった北沢楽天が創刊した大判多色刷の漫画雑誌。
同誌は、日本初の活版刷雑誌『団団珍聞』の倍の大きさで、全ページ色刷漫画が特徴であった。

この『東京パック』(第一次)は人気を集め明治四十四年六月まで続く。
本稿では四十二年までを考察対象とした。
ちなみに、北沢楽天は、わが国における最初の職業漫画家で、「漫画の父」をいわれる。

次に列記したのは『東京パックからピックアップした眼鏡をかけた人物一覧である。
これによれば、眼鏡をかけた人物の階層・職業は、華族、学者、博士、紳士、銀行頭取、会社重役、医者、銀行員、文士、新聞記者、学生、女教師などである。
これらの人物は、いずれも当時の社会にあっては、高いステータスの人々である。

文芸作品に見る眼鏡の日本人
これまで、漫画や絵画など視覚的史料によって、眼鏡の日本人を考察してきた。
次に付随的であるが、文芸作品の中に現れた眼鏡の人物をいくつか見てみよう、

尾崎紅葉『金色夜叉』
尾崎紅葉の『金色夜叉』は、明治時代の有数のベストセラー小説であり、明治三十~三十六年にわたって『読売新聞』に連載された。
紅葉は、間貫一の恋敵、富山唯継の紳士ぶりを次のように描いている。

……紳士はとしのころ二十六七なるべく、たけ高く、よき程にこえて、色は玉のやうなるに頬のあたりにはうすくれなるを帯びて、額厚く、口大きく、あぎとは左右に蔓りて、面積の広き顔はやや正方形を成せり。
ゆるく波打てる髪を左のこびんより一文字になでつけて、少しは油を塗りたり。
濃からぬ口髭をはやして、ちひさからぬ鼻に金縁の眼鏡を挟み、五紋の黒塩瀬の羽織にくわ紋織の小袖を裾長にきなしたるが……(傍点ー引用者)
〔『尾崎紅葉集』(『日本近代文学大系』五、角川書店、昭和四十六年』〕

また、貫一が仕える高利貸鰐淵直行の子息直道を次のように描写する。

……としのころ二十六七と見えて、たけは高からず、色やや蒼きやせがほのむづかしげに口髭たくましく、髪のおい乱れたるに深々と紺ネルトンの二十まはしの襟を立てて黒の中折帽を脱ぎて手にしつ。
高き鼻にべっこうふちの眼鏡をはさみて、かどあるまなざしは見る物ごとにうらみあるが如し……(傍点ー引用者)
〔同前〕

二葉亭四迷『其面影』
二葉亭四迷の『其面影』は、明治三十九年、『東京朝日新聞』に連載された。
この小説は、神田にある私立大学の講師小野哲也を主人公として、知識人の生き方をテーマとしている。
金縁眼鏡のインテリ小野の人物が、冒頭において次のように描かれている。

……一人は細長く、一人は横太りの、反対は格構ばかりでなく、細長いのは薄汚れたしもふりの背広の、パンツの膝もとうにすり切れて毛が無いのに、黒とは名のみで、ひなたへはちとはばかりあるつばひろの帽子で、是ばかりは不釣合な金縁眼鏡を掛た、面長で頬のこけた、眉の濃い割に髭の薄い、何処となく貧相な、一見して老書生という風采の男で、何やらしたたか詰込んだ、てずれてあかびかりのする、もみかはのポートフォリオをこわきに抱へてゐたが……。(傍点ー引用者)
〔『二葉亭四迷全集』第一巻、筑摩書房、昭和五十九年〕

夏目漱石『虜美人草』
夏目漱石の『虜美人草』は、明治四十年、『東京朝日新聞』および『大阪朝日新聞』に掲載された。
この小説は、紫の女といわれる藤尾の我執に満ちた生活を軸に、彼女をとりまく人々の友情や恋愛、また恩義と人情を主題とする。

博士論文を書こうとする文学士小野に、五年ぶりにあった小野の恩師の娘小夜子は、小野の変わりぶりを次のように心に描く。

細い面を一寸奥へ引いて、上眼に相手の様子を見る。
どうしても五年間とは変つてゐる。
ー眼鏡は金に変つてゐる。
五分刈りはつやのある毛に変つてゐる。
ー髭は一躍して紳士の域に上る。
小野さんは、何時の間にやら黒いものをたくわへてゐる、
もとの書生ではない。
襟は卸したててある。
飾りにはピンさへ肩を動かす度に光る。
鼠の勝つた好いちよつきのかくしにはー恩賜の時計が這入ってゐる。
此上に金時計をとは、小さき胸の小夜子が夢にだも知る筈がない。
小野さんは変つてゐる。(傍点ー引用者)
〔『漱石全集』第三巻、岩波書店、昭和四十一年〕

森鴎外『直言』
森鷗外の詩「直言」は、初め、「腰弁当」という署名で、明治四十年十一月一日発行の『明星』に発表され、後に詩集『沙羅の木』に収められ、大正四年刊行された。
「直言」は「たとひ詰まらぬ作にても/お名前あれば人は買ふ」という金縁眼鏡の無礼な原稿依頼者への憤怒を主題としている。

直言
金縁目がね、バイシクル。
留守を使えへど、まのあたり
帰るを見つと、上がり来る。

「是非高作の掲載を
こたびは許し給はりて
添へん次号の光彩を。」

「生憎何も出来合ひて
あらず、道切りし
インスピエション無沙汰して。」

「そこを押してぞわれ願ふ。
たとひ詰まらぬ作にても
お名前あれば人は買ふ。」

金縁目がね、バイシクル
人は見掛によらぬもの、
此直言を敢てする。(傍点ー引用者)
〔『鴎外全集』第一九巻、岩波書店、昭和四十八年〕

以上、明治の文豪が描いた眼鏡の人物を見てきた。
他にも多くの文芸作品が眼鏡類を描写している。
たとえば北原白秋である。
ただし白秋は、望遠鏡や拡大鏡を南蛮渡来の文物として、南蛮文化の一つとしてこれを取り上げている。

北原白秋『邪宗門』
明治四十年七月、北原白秋は与謝野鉄幹、木下杢太郎(太田正雄)、吉井勇ら新詩社同人とともに、天草、島原など北九州のキリシタン遺跡巡歴の旅行を行うが、この旅行が機縁となって、白秋をしてキリシタン、南蛮の世界に題材をとった数々の象徴詩を書かせることになる。
それが処女詩集『邪宗門』へと結実してゆくことになるのであるが、この『邪宗門』の巻頭を飾ったのが次の「邪宗門秘曲」である。

われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
黒船のかびたんを、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、にほひときあんじやべいいる、
南蛮の桟留縞を、はた、あらき、ちんだの酒を。
目見青きドミニカびとはだらにずし夢にも語る、
禁制の宗門神を、あるはまた、血に染むくるす、
けしつぶを林檎のごとく見すといふけれんのうつは、
はらいその空をも覗く伸び縮む奇なる眼鏡を。(略)
〔『白秋全集』一、岩波書店、昭和五十九年〕

「邪宗門秘曲」の中の、「けしつぶを林檎のごとく見すといふけれんのうつは」、「はらいその空をも覗く伸び縮む奇なる眼鏡」は、おそらく虫眼鏡と望遠鏡のことであろう。

この『邪宗門』の出版が、いわゆる南蛮趣味を引き起こしたといわれている。

明治の代表的な言葉に「ハイカラ」がある。
和製英語のハイカラは英語のhigh collarに由来するといわれる。
明治三十四年の「読売新聞」や三十五年の内田魯庵著の『社会百面相』にも、ハイカラという言葉を見い出すことができる。
さらに、明治三十八年十一月、竹越与三郎の洋行送別会の席上、小松緑が一場の滑稽演説でハイカラを賞揚したのが書く新聞紙上に報道されて以来、流行語になったという。

しかし、ハイカラという言葉が庶民に知られるようになったのは

ゴールド眼鏡のハイカラは
都の西の目白台
女子大学の女学生
片手にバイロンゲーテの詩
口に唱える自然主義
早稲田の稲穂がサーラサラ
魔風恋風もそよそよと
(神長瞭月 詩・曲)
という明治四十ニ年の「ハイカラ節(ソング)」の流行以降であろう。(続く)

弊社では眼鏡のコレクションを数百点を展示した東京メガネミュージアムを運営しております。
現在事前予約にて受付させていただいております(平日10:00~16:00 土・日・祝日閉館 入場料無料)
ミュージアムのご予約、「眼鏡の社会史」(税込定価:3,417円)の書籍をご希望の方は、stage@tokyomegane.co.jp までメールにてご連絡ください。
お電話の場合は03-3411-6351までお願いいたします。