News Releaseニュースリリース

連載
本部

【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第八回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第八回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は望遠鏡の伝来についてです。前回はこちら

第3章 信長・家康と望遠鏡

1 望遠鏡の伝来
「遠鏡図説」
望遠鏡の日本への伝来に関する歴史的事実は大変興味深い。

江戸時代において日本最初の望遠鏡は、イエスズ会宣教師オルガンチノが織田信長に献じたものがその最初であるとされていた。

一八五八年(安生三年)に出版された次の『遠鏡図説』は、江戸時代の天文方山路彰常と同手代中西邦孚によって編集され、彰常の父山路諧考の校閲をへたもので、蘭書などに基づき望遠鏡発明の由来、原理、製造法、及び精粗などとともに日月五星銀河の図を附した望遠鏡入門書である。

(略)され此器本邦に舶来せしハ、永録十一年九月「ウルカンハテレン」(人名)信長に遠眼鏡を捧たると五月雨抄(天明甲辰年、三浦安貞著)に見えたるを始とす。
〔西書に見へたる発明の年数は是より二十三年後なり。定かならず。
されは西書の年数は全く和蘭にて製造せる始にて他国にて是より先に発明せるにや。
湯若望か支那に入りしも永録よりは五十年の後なれども、未だ遠鏡の製精巧ならさるを見れば、五月雨抄の説猶拠るへからさる歟。姑らく記して後考をまつ〕
その後本邦にても往々この製式に倣ひ造り出せるにや、既に有徳大君の御代長崎に森某と云う玉工ある由上聴に達し、製造せしめられしとて今暦局に存せり。
寛政の年時には岩橋某麻田立達等此技に委しく、其製作の品また暦局の測器に存す。
近来稍また精巧に至れり。

この『遠鏡図説』によると望遠鏡の伝来は、永禄十一年(一五六八年)九月に、オルガンチノが信長に捧げたものとしている。

しかし、一方において、「西書に見へたる発明の年数は是より二十三年後なり。定かならず」として、伝来時期が発明以前であることに疑問を抱いている。

『図説』はいかなる西書を参考にしたのかは明らかではないが、望遠鏡の発明は一五九〇年説、一六〇四年説、一六〇六年説、一六〇八年説など諸説あり、現在でも一定していないが、一六〇八年にオランダミッデルブルクのオランダ人眼鏡師によって発明されたものという説が最も有力で、定説化されていた。

しかし、いずれの説も、信長に献じたとされる永禄十一年(一五六八年)以降なのである。

また『図説』では、「近来製作の尤巧なるは向玉に青白の披璃を重ねたり」と、色消しレンズの発明にもふれ、これをロシアの「シントヘイトルヒュルク」の人「エウレル」によるもの、つまり、セントペテルスブルク学士院の教授を務めたスイス生まれの数学者レオンハルト・オイラーとするなど、かなり最新の情報まで吸収していることがうかがわれることから見ても、西洋の知識を持つ天文方役人としては「定かならず」と書かざるをえなかったと思う。

新説「一五四〇年説」
一九九一年十一月一日付の朝日新聞では、「英国天文学会会長コリン・ロナン氏が大英博物館付属の図書館の古文書を調べた結果、望遠鏡を発明した人物は英国の数学者レナード・ディック父子であり、その時期は一五四〇年頃であることが明らかになったと発表した」という旨の報道がなされている。

ロナン氏は、この発明が公にならなかった理由について、当時英国はスペインと敵対関係にあり、スペインの無敵艦隊が望遠鏡を軍事用に使うことを恐れるがゆえ、英当局が伏せたためとしている。

この発表が事実とすれば、望遠鏡の発明時期は七〇年近くさかのぼることになり、遠くはなれた極東の国の望遠鏡の歴史にも変化をもたらすことになる。
すなわち、従来否定され続けてきたオルガンチノが信長に献上したという説がよみがえってくることになる。
まさに、『図説』の中の「(和蘭以外)他国にて是より先に発明せるにや」ということになるのである。

ここで、あらためてオルガンチノ=信長説を検証してみたい。

『図説』は三浦梅園(安貞)の『五月雨抄』を根拠としている。
『五月雨抄』には「ウルカンハテレン」は「彼国より我国の金銀多きを知り、国を奪わん為に来りつれば、かの主よりいろいろの財宝を心のままに渡しける。
望遠鏡、顕微鏡も、信長に謁しけるとき捧しものの品なりける」とある。

三浦梅園(一七二三~八九年)は江戸時代中期の思想家で、儒学と洋学を調和して宇宙の構造を説明するなど、その学識は哲学・宗教のみならず、天文・地理・医学におよんでいた人物である。

この『五月雨抄』は、柴谷吉佐衛門の『伊吹もぐさ』にもとづいているのであるが、この他、次の『南蛮寺興廃記』『南蛮寺物語』『吉利支丹物語』などにも、すべてオルガンチノが信長に献上した品物の中に望遠鏡の記述が見られる。

ウルガン、信長に対して礼する法、両臑指先を揃へ向ふへ差出し、両手を組て胸に手を当て頭を仰ぐ。
誠に不思議の礼式なり。献ずる所の物七種、七十五里を一目に見る望遠鏡、芥子を卵の如くに見る近目鏡、猛虎皮五十枚、毛氈五町、四方見当なき鉄砲、伽羅百斤、八畳釣りの蚊帳、一寸八分の香筥に入る、コンタツと云珠数、紫金にてこれを造る、四十二粒あり。
〔『南蛮寺興廃記』(『日本思想闘諍史料』第一〇巻、名著刊行会、昭和四十四年)〕

此七いろの宝物とは、七十五里を一目に近くにみる遠眼鏡、又は芥子、玉子のごとく見ゆる近めがね、もうこの皮七十五枚、四方見当なき鉄砲、又伽羅百斤、又八畳釣の蚊帳、一寸八分四方の箱に納て、一たれ、ごんたつというなんばんのじゆず、紫金にて作りし四十二邦を表したる四十二粒のじゆず、此七いろときこへける。
〔『南蛮寺物語』(同前)〕

すなわちしんもつには、てつぽう十挺、遠近のめがね、八でうづりをかうばこに入るほどの蚊帳、十五けんにおよぶしやうひ、まき物、くすり物、野牛、ひつじ、唐犬以下、しゆかずをつくして捧げ奉る。
〔『吉利支丹物語』(同前)〕

これらの図書は、いずれもキリシタン排撃の通俗書(排耶書)ではあるが、かなり明快な記述であり、文献証拠をしては十分なものと思えるにもかかわらず、発明時期との逆転が今まで超えられない壁であった。

事実、本書も初版(一九九〇年)においては、望遠鏡伝来における信長献上説を否定している。
しかし、英国の天文学会会長コリン・ロナン氏の発表は、その信長説をよみがえらせることも当然であるが、逆に見れば信長説が英国新説の補強になり、事実に近づくことになるのかも知れない。
この新説の紹介が『遠鏡図説』著者の「後考をまつ」の一助となれば喜ばしい限りである。(続く)

弊社では眼鏡のコレクションを数百点を展示した東京メガネミュージアムを運営しております。
現在事前予約にて受付させていただいております(平日10:00~16:00 土・日・祝日閉館 入場料無料)
ミュージアムのご予約、「眼鏡の社会史」(税込定価:3,417円)の書籍をご希望の方は、stage@tokyomegane.co.jp までメールにてご連絡ください。
お電話の場合は03-3411-6351までお願いいたします。