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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第十回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第十回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回はタイオワン事件と眼鏡・望遠鏡についてです。前回はこちら

第二部 事件

第4章 日蘭貿易と眼鏡
1 タイオワン事件と眼鏡および望遠鏡
台湾における日蘭の衝突
眼鏡あるいは望遠鏡は、ヨーロッパの珍しい贈り物をして大名・領主層に大いに喜ばれる品物の一つであったが、眼鏡あるいは望遠鏡が、その贈り物としての役割を遺憾なく発揮したのが、タイオワン事件であった。

以下、タイオワン事件の概略を述べながら、日本とオランダの外交交渉の中で、眼鏡または望遠鏡がいかなる役割を果たしたか見ていきたい。

そもそも、日本にオランダ船があらわれたのは一六〇〇年、豊後に漂着したリーフデ号が最初であった。
関ヶ原の合戦に勝って天下を平定した家康は、一六〇五年、リーフデ号の生存者のうち、ヤコブ・クァケルナックとメルヒオール・ファン・サントフォールトに渡航免許状を与え、
彼らを平戸候が艤装させた船で、当時オランダ船の根拠地であったパタニ港へ送って、オランダ船の来日を慫慂した。
そして、何回かの失敗の後、一六〇九年七月、ローデ・レーウ・メット・パイレン号とフリーフーン号の二隻が平戸に入港、ついで駿府において家康から日本国内における自由貿易を
保証する通商免許状を与えられて、ここに日蘭貿易が正式に始まることになった。

ところが、初期のオランダ船による日本貿易というのはまったくの略奪貿易であった。
というのも、オランダは中国との直接貿易を行うことができなかったため、日本への輸出品のうち最も利益のあった中国産生糸、絹織物をもっぱらポルトガル船、
あるいは中国船を略奪することによって確保していたからである。
このような海賊行為は、ポルトガル船に対して多額の資金投資を行っていた日本の利益を損なうものであったから、幕府は日本領海内におけるオランダ船による略奪を禁止していた。

一方、中国における基地を確保する必要にせまられていたオランダ側は、一六二二年、マカオを攻撃したがポルトガル人の烈しい抵抗にあって失敗する。
そこでオランダは澎湖島に要塞を築こうとしたが、福建総督の勧告を受け入れて台湾島に移ることとし、翌二三年、タイオワン(現在の台南市の外港、安平)に要塞を築きはじめた。
ところが、タイオワンには、早くから日本船が渡航し、通商を行ってきたから、日本人と、新たにタイオワンに根拠地を獲得したオランダとの間に衝突が発生するのは避けがたい状況となった。

一六二五年、タイオワン長官マルティヌス・ソンクは、タイオワンの中国人と日本人の貿易を閉め出そうとして、タイオワンからの輸出品に対して一〇パーセントの関税を課してきた。
しかし、日本人はオランダ人より古くからこの地に居住しているとの理由でこれを拒否した。
そこで、ソンクは日本人の買い入れた生糸のうち一五ピコルを差し押さえるという事件がもちあがった。

さらに翌一六二六年には、京都の朱印船貿易家平野藤次郎と長崎代官末次平蔵の船二隻が三〇万デュカットの資金を積んで台湾へ来航したが、これを台湾で使うことはできなかった。
そこで、末次船の船頭、浜田弥兵衛が中国本土で買い入れた品物を取りに行くため、オランダ人からジャンク二隻の借用を申し入れたが拒絶されたため、日本船はタイオワンに越年しなければならなかったという事件が起こった。

ノイツの参府
この事件が幕府の耳に入ったとの第五代平戸商館長(一六二三~三三年)コルネリウス・ナイエンローデからの報告を受けたバタビアの東インド総督ピーデル・カーペンティールは、
台南におけるオランダ人の行動を弁明し、今後できれば二、三年、タイオワン行の日本船への朱印状発行の中止を請願するための使節(大使ピーテル・ノイツ、副使ピーテル・ムイゼル)を日本へ送った。
この使節の日記が「ピーテル・ノイツおよび上級商務員ピーテル・ムイゼルの日本閣老への大使としての参府日記」であり、ここに、眼鏡および望遠鏡が贈り物としての役割をもって登場してくるのである。

五日 上天気。晴。西の風。昼頃平戸候の使いが来て、次のことを知らせて来た。
閣老達は、我々が望遠鏡を一、二個持っていないかと尋ねた。
そこでもし我々がこれを持ってこなかったら、手紙を書き、このために直ちに急使を平戸に送る様に。
この地に何も返事を受取らないことは、我々は甚だ不思議に思われる。
使者が平戸から帰って来るまでに、恐らく五、六週はかかるだろうが、我々はこれに従い、望遠鏡について(これに添える書簡の写しに見られる通り)、ナイエンローデに手紙を書かねばならなかった。
〔「ピーテル・ノイツとピーテル・ムイゼルの参府日記」三二~三三頁
(永積洋子訳『平戸オランダ商館の日記』第一輯、岩波書店、昭和四十四年)〕

ここに引用したのは一六二七年十月五日(寛永四年八月二十六日)の条である。
江戸に到着した使節に対して、早速、一通りの尋問(?)が行われたが、それが一段落して後、平戸候からの依頼で、望遠鏡を平戸から取り寄せることになった部分である。
日記の文体からもわかるように、平戸候からの依頼に対して、大使ノイツは決していい顔をしていない。
いやいやながら、商館長ナイエンローデに手紙を書いていることがありありとみえる。
初代平戸商館長ヤックス・スペックスは「日本に来る人物はこの国の習慣に精通し、勇敢、謙虚、慎重でなければならない」とかねてから警告していたが、大使ノイツの態度は倣岸不遜、謙虚さなどまるでなかった。
まさに、そのような大使の気持が手にとるようにみえている部分である。

そして、一六二七年十月三一日には、五日に平戸に発注した望遠鏡が送られてくる。

三十一日 (略)ナイエンローデは、今月五日の我々の注文に答えて、所望された遠くを見るための眼鏡、則ち望遠鏡を送って来た。
その一つをノイツは江戸町奉行、弾正殿の家に送った。その場には平戸候も居合わせた。
弾正殿はこの望遠鏡を喜んで受取って言った。
「これは或る個人ではなく、若い皇帝当将軍様に贈るのである。
皇帝はこれをひどく欲しがっていたから、私はこれをすぐに渡しに行こう。
皇帝がこれを喜ぶことは間違いない。その時に貴下の件についても願い出て見よう(略)
〔同前、八五頁〕

送られてきた望遠鏡は三つあるのだが、そのうち一つは、早速江戸町奉行島田弾正忠次兵衛利正に渡されている。
そして、それはさらに「若い皇帝当将軍様」に送るとあるように、オランダ使節が将軍に拝謁できるよう取り計らうための手段として、三代将軍家光に贈られるものであった。

もう一つは、次の史料に見られるように、十一月二日に平戸候が個人的に所望している。

二日 朝早く平戸候はノイツに日本の強いアラク酒の小瓶二本をとどけ、胃の調子をよくするため、朝飲んでほしいと言って来た。
そしてノイツに、もう一つの望遠鏡を、(我々が未だ二つ持っていることを知っているので)贈り物として贈るのではなく、金を払うから売ってほしいと頼み、又我々は円い環とかそれに類する珍奇なものを持っていないかと尋ねて来た。
〔同前、八七頁〕

このような贈り物にもかかわらず、ついに、ノイツは将軍に拝謁することはできなかった。
使節に対する待遇も日々悪くなり、外出もままならなくなったノイツは、ついに副使ムイゼルを残して十一月八日、江戸を出発する。
そして、ムイゼルは途中十一月二十五日、平戸候から眼鏡三個を新たに依頼されたことを書いている。

しかし、それは平戸候ではなく、江戸町奉行島田弾正からの注文であることは、一六二八年二月二十四日に、平戸でムイゼルが受け取った一六二七年十二月二十九日付の松浦肥前守からの手紙でわかる。
おそらく、使節が江戸を去るにあたって、島田弾正が個人的に所望したのであろうか。

タイオワン事件
ピーテル・ノイツの使節派遣は何の成果も得られず、むしろ日蘭間の緊張をもたらしただけで終わった。
そして、この日蘭間の緊張は一六二八年に起きた、いわゆる「タイオワン事件」で頂点に達する。

一六二八年五月、末次平蔵の派遣した二隻の船がタイオワンに入港した。
タイオワン長官となっていたノイツは、日本人の上陸を禁止し、交渉に来た船長の浜田弥兵衛を三日間抑留し、その間、同船が積んでいた武器を差し押さえ、さらに便乗していた新港の住民を抑留、将軍家光から新港の住民が賜わった下賜品も押収してしまった。
さらに日本人が生糸の買い入れのため、中国本土に船を出そうとしたが拒絶され、遂に日本に帰るための出発の許可を求めにノイツを訪れたところこれをも拒絶されたため、日本人は隙を見てノイツに飛びかかり、これを捕えてしまった。
その後、数日にわたる交渉の結果、日蘭双方ともに五人の人質、すなわちノイツの実子ラウレンス・ノイツ、商務員ピーテル・ムイゼル他三人、日本側からは末次平蔵の従弟柴田八左衛門他四人を出し、両者を日本で交換した後、ノイツを釈放するなどの条件で和解が成立、七月十一日にオランダ人人質は日本船に、日本人人質はオランダ船に乗せてタイオワンを出港した。
ところが、長崎に入港した日本人人質はただちに釈放されたのに対し、オランダ人人質はそのまま監禁されてしまった。
そして、事件と直接関係のない平戸のオランダ商館まで閉鎖されるという事態にたちいたった。

この事件を知ったバタビアの東インド総督クーンは、ウィルレム・ヤンセンを日本へ派遣することにした。
しかし、一六二九年九月、平戸に到着したヤンセンは江戸へ行くことも交渉に入ることもできずに、バタビアに帰還する。
クーンにかわって東インド総督となったヤックス・スペックスは、ヤンセンがもち帰った末次平蔵および平戸藩主から総督に宛てた手紙によって、日本側の主張を検討し、継続の確信を得、再びヤンセンを日本へ派遣することとした。

このヤンセンと幕府との交渉の中で、再び、というよりも前回以上に、眼鏡および望遠鏡が有効に贈り物として利用され、タイオワン事件解決に大いに活躍するのである。
それは、日本に向かうヤンセンに与えた訓令の中に、「我々は、贈り物をするという方法で日本では多くのことが実現すると希望し、信じている。
とはいえ日本で贈り物をするには、秘密という条件が甚だ重要であることは、我々も十分考慮している。
これが秘かに、注意深く、慎重に行われないなら、物事を促進するよりは一層の軽蔑を容易に招くだろう。
そこで貴下と平戸の友人が上記の方法を用いる時には、良い結果を得るために要求される様に、全く口が固い慎重な人を用いる様、特にすすめる」と、かつて平戸のオランダ商館長を勤め、日本の事情に詳しい東インド総督ヤックス・スペックスの日本の習慣を熟知した適切な助言に忠実に従い、ヤンセンは贈り物を有効に駆使するのである。

ヤンセンと平戸候
ヤンセンの交渉の窓口となっているのは平戸候松浦備前守隆信である。
平戸候は、次の史料『ウィルレム・ヤンセン』の日記にあるように、望遠鏡その他の眼鏡を所望しているが、それは江戸町奉行島田弾正忠次兵衛利正に贈られ、そして将軍家光に贈られるはずのものであった。
それによって平戸候は事件の解決の足掛かりを得ようとしたのである。

三十日 朝早く、平戸候の家に望遠鏡やその他の眼鏡を持っていった。
そこに行くとしばらく待たされた後、平戸候のところに案内された。
彼は我々を鄭重に迎え、我々を長い間呼び寄せなかったが我々のことを考えていた、と言った。
(略)更に彼は眼鏡について尋ねた。我々はこれを彼に見せた。
彼が誰に贈るつもりかと一つ尋ねた時、我々は与えられた覚書通り適当に返事した。
最後に彼は弾正殿のために注文した眼鏡二つを渡してほしい、と要望した。
我々はこれを渡した。又我々は彼に万華鏡一つと非常に倍率の高い小さな鏡を贈った。
彼はこれを大変喜び、我々に感謝した。
結局我々が眼鏡を全部手許におきたがっていることを知った。
そこで我々は彼がこれを何らかの方法で皇帝に見せるつもりだと想像した。
彼は、翻訳のために勘解由殿を遣わす時までに我々が返事を用意しておく様に命令し、立上った。(略)

一六三一年六月(寛永八年五月・六月)
六月一日(五月二日)晴。夕方平戸候の貴族が、弾正殿が我々の所に遣わした貴族を連れてきた。
彼は我々が一昨日平戸候を通じて弾正殿に贈った眼鏡について礼を述べに来たのである。
彼はこれを非常に気に入り、役に立つとつけ加えた。
さらに弾正殿は、会社の件については自分がひきうけたから、近い中によい結果になるだろうと伝えさせ、我々に安心している様にと言った。(略)
〔「ウィルレム・ヤンセンの日記」三〇~三一頁(永積洋子訳『平戸オランダ商館の日記』第二輯、岩波書店、昭和四十四年)〕

ところが、このとき平戸候に贈った眼鏡は上等なものではなかったようである。

その事情は、次のオランダ商館長ナイエンローデからの手紙に見られる。
それによれば、眼鏡のレンズは普通品で、曇った日などに使用してはあまり効果のない代物であり、その結果について非常に危惧している様子が見られる。

十一日
(略)伯左衛門が眼鏡を持って到着したことについて、貴下はこれを喜んでいるようだが、我々は逆に悲しんでいる。
人間の常識からいえば、これは我々の件を悪化させる要因となるだけである。
この様な大官への贈り物は、本人以外の誰の評価にも委ねてはならない。
この眼鏡のレンズは普通品に過ぎない。
そこで話の行きがかりでこれがすべての人の評価に委ねられ、大官の誰かが曇った日とか適当な機会にこれを試したら、これは貧弱なものの見なされる様になり、他のすべての人にもそう言われるだろう。
そこで皇帝がこれを一度見ようと言い出す危険もある。
彼はこれら全部を放任すれば、風評は偏見と悪意に満ちて起るだろう。
だからこの件が何がよい結果を生むには余りにも危険が多いのである。
しかし、この件については辛抱して、何事も御心のままに計らい給う全能の神に、一切を委ねなければならぬ。(略)
〔同前、四五~四六頁〕

贈り物は、眼鏡、望遠鏡に限らないことはいうまでもない。
「ウィルレム・ヤンセンの日記」を読むと、それはまるで贈り物の控えといった印象を受けるくらい、さまざまな贈り物を閣老にしていることがわかる。
にもかかわらず、なかなか事件の解決の糸口を見い出すにいたっていない。

そして、ヤンセンが江戸に着いてからすでに一年以上経過した一六三二年八月三日の記述が次である。

三日 (略)平戸候と弾正殿は、一六三一年七月十三日に我々が平戸候に渡した燭台と、老皇帝のために送られた娯楽用の眼鏡を、弾正殿(彼は近日中に宮廷に行くはずである)又は讃岐殿を通じて、皇帝に贈ることを決定した。
そして彼等に、これはオランダ人からで、彼等はこれを今まで献上のために取っておいた、と言うつもりである。
皇帝は、オランダ人が何故ここに留められているのか、と尋ねるだろうから、その時会社の件につき話し、我々の出帆の許可を得る機会があるだろう。
我々がこの方法で出帆の許可が得られることを希望している。
司令官は、平戸候がこの様な方法を取ると聞いて、大変うれしい、と答えた。(略)
〔同前、三五九頁〕

この条を見ると、贈り物がどのようにして使われるかよくわかる。
つまり、贈り物に将軍の注意が引き付けられたところを見計らって、オランダ人の問題について善処を要望するというわけである。
このような方法は、現在でもそう変わらないのではないだろうか。
したがって贈り物は普通の品であっては注意をひかないし、また、それを贈るタイミングも重要になるのである。

ところで、ここに「老皇帝のために送られた娯楽用の眼鏡」とあるが、「老皇帝」とは二代将軍秀忠であり、秀忠は一六二三年に隠居して江戸城西ノ丸にあったが、一六三二年二月三日に死去している。
この秀忠の死去は、タイオワン事件の解決をさらに長引かせることになるのであるが、オランダ側は、この老皇帝秀忠にも働きかけようとしていたことが、ここからうかがえる。
また、「娯楽用の眼鏡」というのは、いったいどのようなものなのであろうか。
それは秀忠の死によって、結局、贈られないまま平戸候の元に止め置かれていたのであろうか。

このように、将軍への贈り物についての具体的使用方法を聞かされたヤンセンが、非常に喜んだのも無理はない。
贈り物が、その後どのように使われたのかについての、彼のひとかたならぬ関心は、次の八月八日の条と、八月十二日付のヤンセンからナイエンローデへの手紙に、よくあらわれている。

八日 朝早く、勘解由殿は通詞利右衛門を呼んで、次の様に言った。
平戸候は、今月三日に述べた燭台と眼鏡とを、弾正殿に贈った。
弾正殿は、今これを渡すのは早過ぎる、しばらく待った方がよいと返事を書いて来た。(略)
〔同前、三六〇頁〕

コルネリウス・ファン・ナイエンローデへ
(略)今月三日の日記抜粋により、嶋田弾正殿と平戸候は、燭台と(貴下が先に平戸候のため送り、我々が渡したもの)老皇帝のために送った娯楽用の眼鏡を、弾正殿(彼は、皇帝が彼の病気中度々見舞の使者を送ったことに感謝するため、近日中に登城する筈である)又は讃岐殿を通じて皇帝に贈ることを決定したことを見られるだろう。
そして、これらは、ここに未だ留められているオランダ人から彼等に送られた、と言うことにした。(略)
江戸にて 一六三二年八月十二日 ウィルレム・ヤンセン
〔同前、三七〇~三七一頁〕

ヤンセンは、この燭台と眼鏡の贈り物の件についてよほど気になっているとみえ、さらに八月十九日にフランソワ・カロンを平戸候の家まで使いにやって、その後の成り行きを聞き出している。
それに対する平戸候の答えは、眼鏡についてはすでに皇帝に献上されている、しかしその効果については不明、というものであった。

以上見たように、閣老への贈り物をめぐるやりとりが行われているうちに、事態は急速に解決へ向かって進んでゆく。
それは、一六三二年九月十日、自由市民の船ワールモント号によって前タイオワン長官ピーデル・ノイツが護送されてきたからである。
これは、まったくヤンセン、ナイエンローデの予想しなかったことであり、東インド総督ヤックス・スペックスの独自の判断によるものであった。
これによって、オランダ側は事件の責任はひとえにノイツの不手際にあり、その責任をとらせるため、ノイツを幕府に引き渡すことで事件の解決をはかろうとしたのである。
この措置を将軍家光は「将軍の家臣としての誠意は示したので、自分は甚だ満足である」とし、ここに、五年にわたる抑留オランダ人の解放と商館の閉鎖が解除され、事件は解決をみるのである。

事件解決御礼としての贈り物
十一月二十一日、オランダ人捕虜の釈放の知らせと、事件解決の御礼として各閣老へ贈り物をするようにという平戸候からの指示を伝えている。
「ウィルレム・ヤンセンの日記」によれば、贈り物の対象者として以下の一五名があげられている。

①酒井雅楽頭忠世ー眼鏡二個、黒繻子三反、模様入りサルピカード三反
②土井大炊頭利勝ー眼鏡二個、模様入りギンガム三反、模様入りサルピカード三反、ビロード三反
③酒井讃岐守忠勝ー生糸十斤、象牙一本
④青山大蔵少輔幸成ーカルサイ一反、トルコ産ゴロフクレン一反
⑤板倉内膳正重昌ー黒羅紗一反、赤カルサイ二反、トルコ産カロメット二反
⑥稲葉丹後守正勝ートルコ産ゴロフクレン一反
⑦秋元但馬守泰朝ー最上等の小羅紗一反
⑧酒井阿波守忠行ー模様入りサルピカード三反
⑨永井信濃守尚政ー模様入りサルピカード三反
⑩伊丹播磨守康勝ー模様入りサルピカード三反
⑪内藤伊賀守忠重ー更紗三反
⑫松平右衛門大夫正綱ー模様入りサルピカード三反
⑬松平伊豆守信綱
⑭堀田加賀守正盛
⑮牧野内匠頭信成
〔同前、四六八~四八八頁〕

眼鏡は老中酒井雅楽頭忠世、同大井大炊頭利勝にそれぞれ二個ずつ送られる予定になっており、当時、眼鏡は贈り物の中でも格別貴重な品であったことが理解できる。

こうして、タイオワン事件は末次平蔵とノイツの個人的な紛争ということで、平蔵の死去(一六三〇年六月二十四日)と、ノイツの幕府への引渡し(一六三二年九月十日)によって最終的解決をみた。
しかし、それはオランダ側が家臣としての忠誠を示し、以後、将軍に対する家臣としての方向を是認することによる解決であった。
したがって、将軍と各閣老に対する贈り物は翌年だけのことにとどまらず、その後毎年のごとく平戸候の指示に従って、なんらかの贈り物の贈答が行われるのである。(続く)

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