【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第三十四回
弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第三十四回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は『玉工伝習録』についてです。前回はこちら
璡珠師朝倉松五郎
朝倉松五郎はウィーンで何を学んだのか。
それは彼が博覧会事務局に提出した報告書『玉工伝習録』に尽きているといっていいだろう。
ここでは以下『玉工伝習録』から始まる、明治初期の眼鏡業界が抱えていた近代化の問題にふれてみたい。
朝倉松五郎は天保十四年、江戸本所緑町に生まれている。
九歳のとき、神田鍛冶町の玉細工師浅井伊三郎へ玉細工修行のため弟子入りし、十六歳のとき、四谷伝馬町の朝倉家に養嗣子となって入籍している。
松五郎がウィーン博へ派遣されるにいたったのは、明治五年一月、博覧会事務局より博覧会への出品作品として、水晶その他玉細工類の製造を命ぜられたのが機縁となったものである。
したがって、日本の出品物中の「水晶細工」は松五郎の製作になるものであり、それに対し『第三賞典・有功賞牌』を与えている。
博覧会開会中、松五郎は職工肝煎伊達弥助のもとで「売店売捌」を担当していたが、いよいよ、明治六年十二月になって、佐野常民より眼鏡製造法とモザイックなどの技術伝習を命ぜられ、翌明治七年一月より、ウィーンの眼鏡製造者グリュゥネルトについての伝習が行われた。
ウィーンでの伝習は五〇日余であったが、その後、イタリアにおいてモザイック技術の伝習にはいった。
しかし、二月二十六日、ローマで病気となったというからモザイックの伝習は中断せざるをえなかったものと思われる。
病気は三月初旬には快癒し、三月十七日、再びウィーンへ帰り、眼鏡製造機械の注文や工事に用いる付属品の買付けに奔走した後、五月ウィーンを発し帰路についた。
横浜に到着したのは六月十日であった。
職人芸と機械技術の導入
松五郎のウィーンにおける伝習の成果を著したのが、『玉工伝習録』(朝倉松五郎述・近藤真琴閲)である。
校閲者の近藤真琴は、当時、海軍中佐・兵学中教授であり、博覧会には一級事務官海軍六等出仕として参加し、「出品目録諸著書編集」にあたっていた人物である。
この報告書が、朝倉松五郎のヨーロッパでの体験に基づいていることはいうまでもないが、松五郎の目には日本とヨーロッパの違いはどのように写ったのだろうか。
この伝習録の「総論」によれば、それは機械の使用の有無にあるようである。
たしかに、江戸時代の技術書には、肝心のレンズを研磨するテクニックにはまったく触れられていなかった。
それは師匠から弟子へ伝授されるべき秘伝であり、みだりに他へ洩らしてはならないものであった。
したがって「勘」と「経験」、つまり「熟練」がものをいう世界であった。
その点において、明治のその当時も変わってはいなかった。
ところが、ヨーロッパは違っていた。
硝子を研磨するのに機械を使用している。
したがって、経験の浅い者でもレンズを磨くことができ、また、何枚でも同じ形に研磨できると、松五郎は結論づけている。
おそらく、『玉工伝習録』を見る限りでは、他の眼鏡製作の工程などはほとんど日本と変わらなかったようである。
しかし、松五郎は、明治九年、三十四歳の若さで亡くなってしまう。
政府の期待を一身に背負っていた松五郎の死亡は、始まったばかりの事業をその家族と弟子たちに残していかねばならなかったのである。
はたして、松五郎に体得された殖産興業はその後どのようにして日本で実現していくのか、それは次節の内国勧業博覧会で見ていくこととしよう。(続く)
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