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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第三十三回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第三十三回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回はウィーン万国博覧会についてです。前回はこちら

第10章 近代産業開花の魁
1 ウィーン万国博覧会
明治政府、殖産興業を目指す
一八七三年(明治六年)、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンで開かれた万国博覧会は、万国博覧会への参加を「殖産興業」政策の一環に位置づけ、技術輸入・技術伝習を目的の一つにかかげる明治政府事業として参加した初めての博覧会であった。

そもそも、日本が万国博覧会に参加したのは、一八六二年(文久二年)のロンドン博が最初である。
しかし、これは日本が直接参加したものではなく、駐日イギリス公使オールコックが収集し、イギリスへ送った品物を展示しただけであった。
日本が直接参加した博覧会としては、一八六七年(慶応三年)パリ博が最初である。
このとき参加したのは、徳川明武を代表とする幕府だけでなく、薩摩藩と佐賀藩も独自に参加していた。
しかし、パリ博への参加も、日本側の主体的な取り組みといったものではなく、幕府にあっては駐日フランス公使レオン・ロッシュの画策によるものといっても過言ではなかった。
したがって、ウィーン博は日本が主体的に参加した初めての博覧会なのである。

ウィーン博への参加は明治政府の威信をかけた国家事業となったが、この博覧会に対して、政府はどのような期待をかけていたのであろうか。
理事官として実質上の最高責任者となった佐野常民は、明治五年五月の正院への上言の中で、博覧会に出品するにあたって五つの目的をあげているが、そのうち、主目的が「精良なる日本の天産・人造物を選び、図説が必要なものにはこれを付し、日本の豊穣と人口の巧妙とを海外に知らしめようとするのが最大の目的」となっていた。
そのために、当時大学東校の化学教師であったワグネルを顧問とし、その指導の下に、局員を全国に派遣して伝統的な美術工芸品を中心とした出品物の採集にあたったのである。

先進諸国の技術伝習を目論む
ところで、ウィーン博への参加にはもう一つ大きな目的があった。
それは、先進ヨーロッパ諸国の工業技術を実見し、その伝習にあたることであった。
佐野は、そのために「工業各科ノ学生及諸職工七十名程ヲ募撰」しようと希望したが、正院からは、「学生ノ儀ハ不差遣諸職工ノ内目的必要ノ分而巳被差遣候間可成丈人員省略イタシ尚伺出事」として入れられなかった。
結局、博覧会の下働きとして派遣された職人・職工、あるいは事務官の中から二四名の技術伝習生を選び、博覧会終了後、ワグネルの指導と世話により、ヨーロッパ各地で技術指導にあたらせた。
この中に、眼鏡産業近代化に貢献した朝倉松五郎が技術伝習生として参加していた。

こうして、ウィーン博への日本の参加体制も整い、明治六年一月三十日、山高書記官以下七十余名は、仏国郵船会社の「ファーズ」号により横浜を出港した。

一行の中には、朝倉松五郎を含む職人・職工たちがいた。
彼らは技術伝習を兼ねて選ばれた職工・職人たちであったが、博覧会開会中は会場設営、神社・楽殿・売店などの建築、造園などにあたった。
そこで、技術伝習の目的の幾分かを貫徹しようとして、六月、「渡航人員中ヨリ若干名ヲ選抜シテ必要ノ技術ヲ伝習セシムルノ方針ヲ定メ」、政府に一万円の経費支出を具申したが、九月になり、政府から「伝習生一同帰朝セシムベシ」との命令が到着した。
やむなく、伊東信夫らは佐野副総裁に自費滞在を請願し、佐野の允許をえて、ワグネルの紹介・斡旋により伝習を開始したのである。
その後、十二月になり、政府より「技術伝習ノ費用トシテ出品売却金ノ内ヨリ六千円ノ支出」を認められ、すでに自費伝習に従事している者はさらに官費で六ヵ月の伝習を認められた。
こうして、ヨーロッパでの技術伝習がはじまったのである。(続く)

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