【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第十一回
弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第十一回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は贈答品としての望遠鏡についてです。前回はこちら
2 贈答品としての望遠鏡
日蘭貿易の再開
ウィルレム・ヤンセンの辛抱強い交渉と、ピーテル・ノイツの引渡しという、東インド総督ヤックス・スペックスの時宣をえた措置によってタイオワン事件は解決した。
このとき、オランダ側がさまざまな贈り物を平戸候を通じて各閣老に贈ったことが、交渉の進展に大いに貢献したことはすでにみたとおりである。
このことは、「贈物こそ最初の扉を開くのであり、しかも当地においては、その目的に到達するのに最も有効な手段である」ことをオランダ側が認識していたことを物語る。
ところで、タイオワン事件が解決したことによって、断絶していたオランダ貿易は再開された。
しかし、再開されたオランダ貿易を待っていたのは、オランダ船に対しても、ポルトガル船や中国船と同じパンカド(糸割符)を適用しようとする貿易制限措置であった。
寛永十年(一六三三年)に出されたいわゆる第一次鎖国令によれば、オランダ船を含む全外国船がパンカドの適用を受け、薩摩、平戸など長崎以外に入港した外国船がもたらす白糸も、長崎の糸の値段が決定しない前には取引できないというものであった。
まさに、日蘭貿易が始まったときの「自由貿易」の完全な否定である。
このように、幕府の政策が転換しようとするときにオランダ商館長に着任したのがニコラス・クーケバッケルであった。
クーケバッケルは幕府の政策を不満とし、オランダに対するパンカドの適用の免除を幕府に要求しようとするが、仲介役である平戸候は、それは、すでに将軍と閣老が決定したことであり、今さら変えられないと説得するだけであり、平戸候がオランダに要求したのは、ひたすら将軍の家臣としての忠誠を示すことだけであった。
そして、参府の際、将軍・閣老に対する贈り物について、事細かに指示することも忘れていなかった。
一六三四年、貿易再開後、初めて将軍に拝謁を許されたオランダ人が持参した贈り物は次のとおりであった。
十四日 (略)今日皇帝に渡された献上品は次のとおりである。
大砲四門及びその附属品・金筒の望遠鏡一本・赤紗羅三反・白紗羅一反・黒紗羅一反・オランダの繻子二反・金銀刺繍入り毛氈一枚・同鹿狩の模様入り一枚・オランダ産絨毯一枚・ペルシャ産衣服一式・ペルシャ産卓子掛一枚・鏡台一個・櫛、小さな刷毛、頭皮用ブラシ、これらはこの鏡台に附属するもの・スラット産扇子一個・大鏡一枚、銀鍍金をし、真珠、貝をちりばめたもの・大鏡一枚・黒檀の枠入り・赤珊瑚五本・白壇三百斤
〔「ニコラス・クーケバッケルの日記」(永積洋子訳『平戸オランダ商館の日記』第三輯、一一九~一二〇頁、岩波書店、昭和四十四年)〕
このほか、平戸候は、雅楽殿(酒井雅楽守忠世)、大炊殿(土井大炊頭利勝)、讃岐殿(酒井讃岐守忠勝)、そして大炊殿と讃岐殿の長子へ、さらに別途七人の閣老へ贈り物をするよう指示している。
このように将軍以外に多数の閣老へも贈り物をすることは、オランダ側にとって大変な負担であったことはいうまでもない。
ただ将軍への贈り物には望遠鏡が含まれていたが、他の閣老には含まれていないことは注目してよい。
それは、「金筒の望遠鏡は、貴下がこの次拝謁する時まで、私が預かっておく。
この様なものは、皇帝以外に贈るべき人がないからである」と平戸候をして言わしめているように、さすがにそれが「金筒の望遠鏡」となると、閣老に贈るには高価すぎたのであろう。
ちなみに、将軍に贈られた望遠鏡の価格は、筒は金鍍金で、金の部分が二〇レアル・ファン・アハテン四分の三、黒い部分が一二レアル、銀の部分が二四九レアル、レンズが一一〇レアルであり、体裁をととのえるために金羅紗と金糸で袋をつくらせ、これが一六レアルかかって、しめて四〇七レアル・ファン・アハテン四分の三というものであった。
これ以後、金の望遠鏡というのは将軍専用の贈り物として重宝がられ、たとえば、一六四一年の江戸幕府のときには贈り物が不足気味だったため、閣老の意見を入れて金の望遠鏡を追加して贈ることに決定している。
それは、次の「マクシミリアン・ルメールの日記」の一六四一年五月八日の記事にもあるように、「皇帝以外には、誰にも送ることが出来ない」くらい立派なものだったから、何とか献上品の不足を、それによってカバーできるであろうという苦肉の策であった。
八日 閣老内匠殿は、我々に知らせた。「皇帝に予定している献上品の覚書を、慎重に検討したが、これは、皇帝に贈るには少いと思う。
そこでこれを少しふやさねばならない。
これは、昨年会社から贈られたものと対になるが、献上品に金の望遠鏡を加えるのがよい。
特にこれは皇帝以外には、誰にも贈ることが出来ないからである。
これが非常に喜ばれることは、貴下達に保証されている。」これを考え、彼の適切な提案に従おう、と回答を伝えた。
〔マクシミリアン・ルメールの日記」(永積洋子訳『平戸オランダ商館の日記』第四輯、四八八頁、岩波書店、昭和四十四年)〕
島原の乱と望遠鏡
このように、望遠鏡は将軍をはじめとする幕府閣老に大いに喜ばれたのであるが、いったい、彼らは望遠鏡の有効性をどのように認識していたのであろうか。
それを知るには、次の「ニコラス・クーケバッケルの日記」の一六三八年三月二十一日の記事がたいへん参考になる。
二十一日 雨。南東の風。午後、平戸候は通詞利右衛門を呼んで、彼に伝えた。
「閣老伊豆殿、左門殿の命令で、有馬から手紙が来て、オランダ・カピテンに、『彼が有馬で持っていた望遠鏡が非常にはっきりとよく見えたので、しばらく我々に貸してほしい、』と書いて来た。」
〔「ニコラス・クーケバッケルの日記」(同前、七三頁〕
これは島原の乱にかかわった記事である。
島原の乱は、一六三七年十二月十七日(寛永十四年十月二十七日)旧有馬亮の農民が蜂起、二日遅れて、天草の農民が蜂起したことから始まる。
そして、十二月二十六日には島原、天草の叛乱農民は合流し、天草四郎時貞を首領に立てて原城に籠もり、幕府軍と対峙した。
これに対して、幕府は板倉内膳正重昌を上使に、石谷十蔵、日根野織部を目付として派遣したが、戦線は、原城に籠もった農民軍がむしろ優勢であった。
このような容易ならざる事態をさとった幕府は、新たに松平伊豆守信綱を上使に任命し急ぎ西下させたが、これにあせった板倉重昌は、信綱が到着する前に農民軍を全滅させようとして、一六三八年二月十四日(寛永十五年元旦)に総攻撃をかけたが、自ら討死する有様であった。
有馬に到着した松平信綱は、オランダ商館長に対して「平戸にいる船はすべて、大砲と共に陣中に直ちに送り来させる様に」という命令を発し、オランダに軍事的援助を求めた。
命令を受けた商館長クーケバッケルは、ただちにフライト船レイプ号に乗船して二月二十一日平戸を出帆、二十三日に早くも「天草の城の近く」に投錨した。
そして、二十六日の午後から農民軍の立て籠もる原城へ、船上から大砲を打ち込みはじめるのである。
このようにオランダは、将軍の家臣としての忠誠をいち早く示したのであるが、それは同時に、オランダに対する踏絵でもあった。
つまり、松平伊豆守がオランダに援助を求めたのは、「ポルトガル人もオランダ人も共にキリスト教徒であるから、同じ教えを信じる叛乱軍にオランダ人が敵対するかどうかを見るために行われた」のであった。
引用した記事は、オランダ船が有馬から平戸へ帰帆した後、松平伊豆守から、オランダ商館長が有馬で持っていた望遠鏡を貸してくれるようにという命令を、平戸候を通じて申し渡した記事である。
このように、望遠鏡を単に珍器としてばかりでなく、軍需品として、その有効性を閣老たちは認識していたのである。
それは、望遠鏡の特許申請に対して、オランダ議会が、それが軍事用の重要機器であるがゆえに、オランダの眼鏡師リッペルスハイに特許を与えたのと同じ認識に立っていることを意味している。
まさに望遠鏡の有効性は、戦争という場でいかんなく発揮されたのであった。
ところで、一六四〇年五月の江戸参府では、次の品物が献上品として将軍に贈られている。
一六日 我々は、平戸候とその奉行に相談し、その助言により、皇帝への献上品を選んだ。
これは次の通りである。(略)
大砲二門、その砲架、附属品・銅の灯架一個・銅製二重の腕附灯架十二個・このための白蝋燭五百本・大きな絵三枚・望遠鏡一個、金鍍金の筒にガラス入りのもの・金鍍金の呼子笛一個、人魚の形のもの。オランダ産ビロード三反・オランダ産長毛ビロード五反・金絹糸入りペルシャ毛氈十一枚(略)
〔「フランソワ・カロンの日記」(同前、三四〇~三四一頁)〕
これら献上品の中に望遠鏡があるが、将軍家光は、いたくこの望遠鏡が気に入ったことが次の記事に見えている。
彼はこの望遠鏡を常に傍らに置き、日光社参のときも持参することを忘れなかったくらいである。
ここでは、望遠鏡はまさに珍器として扱われている。
オランダ商館長クーケバッケルは次のように記している。
三十日 午後、我々は平戸候の家に呼ばれた。
ここに行くと、(閣老内匠殿が、彼に書いた手紙により)我々は彼から次のことを聞いた。
「閣老讃岐殿、伊豆殿は、オランダ人の拝謁の件について、話すことを決定し、それを行った。
しかし皇帝からは次の返事を得た。
「日光から帰ったら、オランダ人に逢おう。」
そこで皇帝に、貴下達の献上品の覚書を見せた。
ここには他の珍奇な物の中に、望遠鏡(彼が長い間求めていた)と銅の灯架(これはさきに贈られた釣り型の灯架と共に、彼の父の日光の墓所に使われる筈である)があるのを見て、直ちに銅の灯架を日光に運び、そこに据え、望遠鏡は彼のところに持って来る様、命令した。
その通りにした。
先ず望遠鏡は、非常に皇帝の気に入った。
そして絶えず彼の傍に持ち歩かせ、これを日光に持って行くのを、忘れない様に、と命令した。」(略)(続く)
〔「フランソワ・カロンの日記」(同前、三四九頁)〕
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