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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第九回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第九回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は家康と望遠鏡についてです。前回はこちら

2 『駿府記』に見える望遠鏡
家康と望遠鏡
望遠鏡の日本への伝来については、一九九一年の英国の新説(すなわち一五四〇年頃にイギリス人が発明説)発表以前において立証しうる最初の記録として『駿府記』の記事があげられていた。
ここのある「靉靆」とは眼鏡の別名で、主に中国文献に多く散見する。

(八月)三日、(略)イゲレス今日候殿中、献猩々皮十間、弩一挺、象眼入鉄砲二挺、長サ一間程之靉靆六里見之云々、
〔『駿府記』(『史籍雑纂』二、国書刊行会、明治四十四年)〕

ここに見える「イゲレス」(イギリス人)とは、日本との通商を求めてはるばる来日したイギリス東インド会社の船長ジョン・セーリスその人である。
セーリスは一六一一年四月、イギリス東インド会社が第八回東洋航海のために艤装したクローブ号、ヘクター号、トマス号三艘の司令官として東洋へ派遣され、ソコトラ、モカ、バンタムと寄港。
そして訓令により一六一三年一月(以下の日付はユリウス暦である)僚船二隻をバンタムより寄港させた上、クローブ号に乗じて日本へ渡航することになり、ついに一六一三年六月十二日(グレゴリウス暦六月二十二日、慶長十八年五月五日)、平戸へ入港したのである。

平戸へ入港したセーリスは、家康の外交顧問となっていたウィリアム・アダムズ(三浦按針)と相談のうえ、幕府からの通商許可を求めるため、八月七日平戸を出発、その後約一カ月かかって九月六日駿府に到着している。
翌々日の八日(グレゴリウス暦九月十八日、慶長十八年八月四日)駿府城において家康に謁見し、イギリス国王ジェームズ一世の親書を捧呈し、あらかじめ用意してきた贈り物を献上している。

セーリスが、国王ジェームズ一世からの贈り物として家康へ献上した品は、八月三日、平戸において、リチャード・コックス、ウィリアム・アダムスらと相談して決められたもので、
セーリスの『日本渡航記』によれば次の品々であった。

八月三日(略)予は皇帝及びその貴族の頭に対する適当な贈物に関して、コックス君、商務員たち及びアダムス君と相談して、次のごとく決定した。
皇帝大御所様への贈物
鍍金の針と、水指、重量六十四オンス半 〔原本 欠写〕
第三十号黒羅紗三十八ヤード 一一五・〇リアル
猩々緋ケルシー一巻 二一・一リアル
緞子二反 五〇・〇リアル
上等白麻布一反 四五・〇リアル
上等薄麻布一反 四五・〇リアル
シミアン・チャウター四反 七・〇リアル
青バイラム五反 七・五リアル
上等帯二筋 一五・〇リアル
上等天竺綿五反 二五・〇リアル
銀台鍍金の筒入望遠鏡一個 六・〇リアル
海上においてつくった弩一挺 〇・〇リアル
金貨四十シリング、内ヤコブス一枚、ソブレーン一枚、エンゼル一枚 一〇・〇リアル
虫メガネ一個 二・〇リアル
テレツ〔包物〕用セラス一反 〇・三リアル
計 三四九・四分の一(二分の一の誤りか)
〔ジョン・セーリス『日本渡航記』(村川堅固約『新異国叢書』六、雄松堂書店、昭和四十五年)〕

パースペクティヴ・グラスとプロスペクト・グラスについて
訳文では、贈り物の中に「銀台鍍金の筒入望遠鏡一個」、および「虫眼鏡一個」とあり、「筒入望遠鏡」は、『駿府記』の「一間程之靉靆六里見之云々」に該当するようだ。
しかし、、この贈り物について、いくつかの英文を調べてみると、虫眼鏡は、いずれもバーニング・グラス〔Burning_Glass(e)〕と書かれているが、望遠鏡については、パースペクティヴ・グラス〔Perspective_Glass〕とプロスペクティヴ・グラス〔Prospective_Glasse〕の二通りの記述がなされている。

バーニング・グラスを虫眼鏡とする翻訳は問題ないと思うが、望遠鏡についてのパースペクティヴ・グラスとプロスペクティヴ・グラスの相違はいささか気になるところだ。

なぜならば、パースペクティヴ・グラスとは、当時イギリスにおいて、単玉(単眼レンズ)小型眼鏡の名称であった。
これは、主に近視用凹レンズを入れ、紐やリボンで胸に吊りさげるようデザインされたもので、上流階級の間で流行していた。
単眼レンズは以前からあったが、技術革新の結果、小型化したものがシェークスピアの時代のイギリス社交界で好まれ、当時ファッションの最先端をゆく眼鏡のことであった。

一方、プロスペクティヴ・グラスとは、プロスペクト・グラス〔Prospect_Glass〕のことであろうと思われるが、これは小型望遠鏡のことであった。

このように、パースペクティヴ・グラスとプロスペクティヴ・グラスは全く異なる品物であった。
なぜ、このような記述の相違が生じたのであろうか。
パースペクティヴ・グラスとプロスペクティヴ・グラスは、当時ヨーロッパでも混同されたという記述もある。
また、眼鏡関係の用語には専門用語が多く、しかもスペリングが似ているケースも多いことなどから、これを翻訳するときや第三者が用いるとき、しばしば混同することもあるので、本件もその一例ではないかと思われる。

以上のことから考えるに、おそらくプロスペクティヴ・グラスの方が正しい記載で、それは望遠鏡のことであったと理解すべきなのであろう。
しかし、その価格が虫眼鏡〔たとえvery(e)_fair(e)=非常に立派な、の修飾語があろうとも〕の二リアル(テール)に対し、銀メッキまたは銀張り〔siv(u)er_gilt(e)〕の望遠鏡が六リアルであることは、軍事的の高いことなどから考えても、いささか安すぎる気がしてならない。

事実、秀忠、家光の時代にも、望遠鏡はさかんに異国からの贈呈品として使われていたが、その対象者はすべて最高権力者に限られていたようで、価格もかなり高価なものであった。

なお、セーリスは駿府へ出発前平戸において、平戸の前領主、松浦法印鎮信を船に招き(一六一三年、六月二十一日)望遠鏡と思われる同じ品物を贈っている。
この贈り物が間違いなく望遠鏡であったとしたら、日付からして、徳川家康よりも早く、松浦法印鎮信が入手していたことになる。

ところで、静岡県久能山東照宮博物館には、家康の遺品として二つの眼鏡が現存している。
これは双方とも、手持ち式の鼻眼鏡である。
レンズは凸レンズで、度数は約一・五D(ディオプトリー)のものと、約二・〇Dのもので、枠は擬鼈甲のような黄色透明である。

これらは、明らかに先述のパースペクティヴ・グラスとプロスペクティヴ・グラスとは異なる物である。
この眼鏡の所伝については、慶長十六年(一六一一年)にセバスチャン・ヴィスカイノが献上したという説、また、ヴィスカイノがレンズのみを持参し、枠は日本の鼈甲職人につくらせたという説もあるが、いずれも証拠となる文献の記載がない。
なお、東照宮博物館では、所伝の件は遺憾ながら不詳とのことである。

以上、望遠鏡の伝来は、それを明確に比定することができないが、オルガンチノが信長に献上したという説を否定し、『駿府記』をもってセーリスより徳川家康(あるいは松浦鎮信)に贈られたとする従来の見方は一考を要するものになり、伝来時期も慶長十八年(一六一三年)から永禄十一年(一五六八年)に四五年さかのぼる可能性が出てきたのである。(続く)

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