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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第三十一回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第三十一回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は近世後期における眼鏡製作と望遠鏡についてです。前回はこちら

2 岩橋善兵衛ー近世後期における眼鏡製作と望遠鏡
眼鏡師がつくった望遠鏡
これまで眼鏡の製造方法についてふれた文献を見てきたが、水晶あるいは硝子の研磨という肝心のところは職人的秘伝の世界として、筆では書き表せないのが実情ではなかったと思う。
ここに一介の眼鏡師でありながら独力で望遠鏡を製作して一家をなした人がいる。それは岩橋善兵衛である。
そこで以下、眼鏡師岩橋善兵衛(宝暦六~文化八年、一七五六~一八一一年)について、少しふれてみたい。

岩橋善兵衛の経歴について、あまりはっきりしたことはわかっていない。
宝暦六年(一七五六年)、泉州貝塚町脇浜新町に生まれ、生家は魚屋だった。
早くより一家をたて、眼鏡の玉を磨いて販売するのを業としていたという。
その後、善兵衛がどのような経緯から望遠鏡の製作を始めたかについてはまったく不明である。
寛政五年七月、自ら製作した望遠鏡をもって京都の橘南谿宅において天体観測を行うが、それについて伴蒿蹊の『閑田次筆』巻一(文化元年、一八〇四年)には次のようにある。

寛政年間、和泉国貝塚の人、岩橋善兵衛新に望遠鏡を製す。
その形やかどのつつのめぐり大抵八九寸、長サはこれに十倍す。
政府の司天台に蛮制のものを蔵められるるといへども、其他にきく事なく、善兵衛が製する所はじめなりとぞ。
五年丑秋七月廿日、橘南谿の宅に人々つどひて、これをもて諸曜をうかがふに、能ク肉眼の視ことあたはざる所をわきまふ。
もとより蛮人のいふ所にかなへり。
先日を観るに、四辺気ありて毛のごとく、気みな左に旋る。
日面黒点五ツありて、大小等からず。
善兵衛いふ、黒点十余日を歴て、日面にわたる、冬春の間は黒点最多しと。
(中略)彼岩橋善兵衛が奇工、実に希代のこととすべし。
〔『閑田次筆』(『日本随筆大成』第一期一八、吉川弘文館、昭和五十一年)〕

当時、望遠鏡をつくったものは善兵衛だけではなく、硝子細工人などで望遠鏡をつくった人物は何人か、数えることができるが、その中で善兵衛のユニークなところは、自らレンズを研磨し、望遠鏡製作を専業としたところにあるという。
善兵衛の望遠鏡製作の手控が、現在岩橋家にある『サイクツモリ』と題する二冊からなる文書である。

秘伝書『サイクツモリ』
その一冊には「寛政五年葵丑 正月吉日」と表記があるが、寛政五年は京都の橘南谿宅において善兵衛の製作になる望遠鏡をもって天体観測をした年であり、同書はそれと何らかの関係があるのであろう。
ただ内容的には「紀州家献上品その他、主として注文を受けた数多くの望遠鏡について、設計や出来具合、その価格等が記されている」が、まことに雑然とした備忘録であり、「玉の製法や諸材料に関する覚え」もあるが正確に解釈することは難しい。
ただ、この『サイクツモリ』を「子孫が技術を継承した際に重要な典拠とした」という点は注目すべきであろう。
というのは、当時技術の伝承が秘伝として行われていたなかで、『サイクツモリ』は秘伝書として技術の伝承を行っていたわけである。
もちろんそこには光学理論に基づく技術があるわけではなく、あくまで職人の経験と勘による記録でしかないし、門外不出として秘蔵されてきたものであることはいうまでもない。
つまり、当時の職人技術は秘伝として一子相伝の関係におかれていたわけである。
その事情は眼鏡細工においても同じであった。
それは次にあげる弟子入りの際の誓約によく表れている。

此度か、そこ元様御弟子と成り、御家法の秘蔵眼鏡細工御伝授成し下され、則ち細工に取り掛り申し候。
もつとも来る卯年まで壱カ年に銀百目づつ親元へ遣し下され候段禿げなく存じ奉り候。
しかる上は、右細工御免候とも、そこ元様の御家より外にて一切細工仕るまじく候。
もし相背き外にて仕り候はば、細工道具残らず御取上げ下さる可く候。
その上見上如何様の御執斗に預り候とも、一言の申し分これなく候。
なほ亦右秘職の義は親子兄弟たりといへど堅く相伝へ申すまじく候。
もし隠し内緒にて伝へ細工致し候事相知れ候はば、その節は私々より細工道具残らず取上げ、そこ元様へ急度相渡し申す可く候。
後日のため依て一札件の如し。

文化元甲子歳極月
親 千ノ 治郎兵衛(印)
本人 梓 佐吉(印)
請人 宮屋 庄蔵(印)
岩橋善兵衛殿
〔有阪隆道「江戸時代における望遠鏡製作について」(『日本洋学史の研究』Ⅲ、創元社、昭和四十九年〕

ただ、このような誓約がはたいて守りきれるかというと、その保証はなかったのではないだろうか。
というのも、第6章の5で明らかにしたように眼鏡細工の道具というのはそれほど特殊なものではないし、腕に覚えのある者ならば簡単に開業できるものだったからである。
現に、岩橋家においても弟子の無断改行に対して、訴訟にまで持ち込んでそれを停止させようとしている例が見られる。

そもそも岩橋家が眼鏡細工の技術を独占しようというのは、販売の独占をねらったものであろう。
封建社会にあって、狭い商品市場を奪いあうような自由競争はありえない。
それを防止するためにギルド制度というのが存在したのであり、岩橋家の例もそれに他ならない。
この訴訟にしても、訴えられた一人については岩橋家の得意先を犯さない限り、具体的には貝塚、岸和田以外での営業は認められたのである。
この訴訟一件に見られるように、眼鏡の需要が増えれば、このように新たに市場に参入してくる職人は後を絶たなかったであろう。
したがって、この一件で、技術の秘伝性を守ろうとしても守りえない社会経済状況が存在していたことが良く理解できるのではないだろうか。(続く)

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