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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第三十回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第三十回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は近世初期における眼鏡製作の技術についてです。前回はこちら

第9章 眼鏡製作の技術

1 近世初期のおける眼鏡製作の技術
江戸時代の眼鏡づくり
いったい江戸時代において眼鏡がどのようにつくられていたのか、その職人的技術については意外と知られていない。
というのも、眼鏡づくりの技術にふれた文献が、何といっても少ないからにほかならない。
とくに、江戸時代の技術というのが「勘」と「経験」による職人芸である以上、「勘」と「経験」を文章の上で残すというのはほとんど不可能である。

以下かなりの制約はあるが、可能な限り眼鏡づくりの技術についてふれた文献を明らかにしてゆきたい。

眼鏡の製作技術についてふれた文献としてまず挙げなければならないのは、元禄三年(一六九〇年)に開版された蒔絵師源三郎の手になる『人倫訓蒙図集』の図〔図9-1〕であろうか。

9-1
「玉摺」の図を見れば、いわゆる玉細工師が当時眼鏡をつくっていたことは明らかであるが、そのつくり方は「金剛砂に水をそそぎて鉄の樋にあてて是をするなり」と説明文に添えられている。
当時、眼鏡レンズの原料として多くは水晶を使用したのであり、この水晶を金剛砂、つまり大和国金剛山から出土した柘榴石の結晶片で研磨してレンズをつくっていたのである。

製作技術といっても、文章化できる部分はこれだけなのである。
レンズを研磨して、ちょうど適切な度まで近づけなければならないのだが、どうやれば適切な度は出せるのか、そのやりかたまでは筆が及んでいない。

眼鏡づくりの技術について考える場合、『人倫訓蒙図集』についで挙げなければならないのは、正徳三年(一七一三年)、大坂の医師寺島良安によって編集された『和漢三才図会』である。
眼鏡の製作技術にかかわるものは次の部分である。

眼鏡 靉靆 〔女加禰〕
『百川学海』に次のようにいう。
靉靆は西域の満利国からもたらされたものである。
大銭に似た形をしており、色は雲母のようである。
老人の視力が衰えて細かい文字が読めないとき、これで目をおおえば、精神は散せず、文字の筆画は大きくはっきりとみえる。
思うに、靉靆とは眼鏡のことである。
水精を片に切り、金剛屑でこれをみがくしてつくる。
老人と壮年とで用いるものに異がある。
老眼の場合は微凸にする。
壮眼の場合は表裏正直になっている。
中老の場合は表は正直で裏がわずかに窪んでいる。
もし老人が壮年の眼鏡でものを視ると、遠い物は鮮明で近い物ははっきりとはみえない。

近眼鏡 表は微かに凹、裏は微かに凸である。

遠眼鏡 三重の筒を作り伸縮できるようにする。
各口に玉を嵌めるが、もとに入れる玉は老眼鏡に似て、中と末とに入れる玉は壮眼鏡のようである。
ただし、わが国で作るものは三里以上を視ることはできない。オランダ青板を用いるとよい。
もっとも、彼の国の硝子とわが国の硝子をとけあわせすれば、大へん堅くなって壊れない。

虫眼鏡 玉は厚く表は凸、裏は平らで、蓋に嵌め、のみしらみを視てみると、その形は大きくみえ、のみは獣に似、しらみはいかに似てみえる。
その他の小さい物も同様に大きく見える。

数眼鏡 表は平らで裏は亀甲のようである。
五稜か六稜の形をしていて五つになったり六つになったり、稜の数に随ってたくさんみえる。
一般に、水精は加賀より出るものが、色は潔白で佳い。
日向より出るものはこれに次ぐ。他は佳くない。
近世では多く硝子でこれを作る。
判別する法は、水精なら舌に粘って稍冷たい。
斜めからこれをうかがえば純白である。
硝子なら微青色を帯びている。
眼鏡の垢油を除き琢くには、木灰汁に一晩浸しておけば磨き去ることができる。
普通の軽い汚れなら、唾で拭えばよい。
ただし煙草を吸ってすぐあとの唾はいけない。
〔『和漢三才図会』(島田勇雄他訳注『和漢三才図会』五、東洋文庫、平凡社、昭和六十一年)〕

『和漢三才図会』では、残念ながら眼鏡のつくり方までの記述はない。
原材料として当時一般的だったのが水晶であり、この水晶を金剛砂で磨けばレンズができることぐらいしかわからない。
その限りでは、『人倫訓蒙図集』の記述の範囲をでていないわけであるが、ただ最近になって硝子が水晶にかわって使われはじめたという記述は注目すべきである。
というのは、次の『万金産業袋』にもあるが、もともと原料の硝子は中国、朝鮮からの輸入品であった。
それが正徳頃から国産の硝子がつくられるようになり、この国産硝子を原材料として眼鏡レンズの製作が当時行われはじめていたことを推測させるからである。

「万金産業袋」
そして、眼鏡の製作技術について最も詳しい文献が次の『万金産業袋』である。

目鏡類 〔此条下には老年若年の目がねの品々、唐作和作の諸品をあけ図をのせて註之。〕
○丸眼鏡 メガネ 靉靆 これ常に用ゆるの目がね、若年・中年・老年のわかちあり。
若年は玉うすくみな硝子なり。
中年より段々と、老年にいたるほど玉厚く、本水晶を用ゆ。
すいしやうは上にいふことく近江よりいつれとも、日向水晶ならては目がねには宜しからず。
合せ砥にてかたむらなく、至極よくすりあくへし。
びいどろ玉は中古唐よりわたる所、厚さ壱分あまり、大根の輪切のごとくにして来るを、和にて又丸みをなをし両面よりよくすり、あつき薄きは中年若年その程々に仕たつる。
又朝鮮より来る白びいどろの菊ちやわんあり。
その破れたるを一つにし、火消つほの蓋に入れ、その上に又同じ通のふたをあをのけにのせ、それに炭火をつよくなこし一時斗も置に右のちやわんみなとけて、蓋のうへに一つに溜る。
扨上の火をとり蓋ながらさまし置けは、いかにもむらなくとけて当にいたまるを、よき程にまろくし、両めんより摺て、右目かねの玉につかふ。
薄き厚きはその好によるへし。
緑は象牙・くしらの髭・鵜のほね・真鍮等、家は箱入・薄皮まがひ・黒ぬり・せいしつ・朱ぬり〔是てうせんざいくに、うす皮に花形などを極印のことく打、上と下と横まきに、金にて雲竜から草なとをすり付けし有それを似せて製す。〕
なんとみな唐紛なり。
草なるは経木板に紙ばり、墨ぬりの上をすり流して用ゆ。
いかにも安物の仕立なり。
○近眼鏡、近視の人是を用ゆ。
もり玉とて玉の表に少しふくらをつけ、うらをまんろくにするなり。
尤水晶にて製す。びいどろは用ひず、○瑕目かね、刀・わき指のきすをあらため見るに用ゆ。
右に同しくもり玉しかけにして少し相違あり。
他事に要なし。尤水晶玉なり。
○虫目かね、これももりたま、筒のうちに仕入れる○遠目鏡、上、百里より下、十里・五里・三里等あり。
かな筒あり。なまり筒あり。内にいる玉の数、本末に二枚、それより三枚四枚、大にいたりしては八枚迄もいるあり。
まづ大概手元の玉を内ぶくらにして外をろくにす。
末の玉も同断。大にいたりて中にいる。へたての玉は、いつれも常の目かねのことし。
されは眼に覆ふ目鏡の玉は、外にふくらあれは物をちかく見する。
影にむかふ鏡の面、上にぶくらあれは、物をちいさく間遠に見せ、又しやくみて凹なれは物を広大に見する事、ちかくは世に有髭鏡にてしんぬへし。
此遠眼鏡も此道理にて、元来を工夫したるなるへし。
尤五里十里までの堺を眼前に見する仕かた、和の製作にも有とはいへと、唐渡ならては本来さいくに上品はなし。
○月めかね、長崎に仕手あり。製作口伝。
月を近く見せ、満月より半月のかけの分量をよく考みる。
かけて月にむかひ瞬なし○日目鏡、製作口伝。
かげまばゆからずといふ○日取目鏡、尤目鏡にかきらす、炎天に水晶のほくちに火のうつる事、世に人のしれる事なり。
しかし此日取玉には、日の火をうくるを、専に製作する。
殊にはしかけに少し伝もありて火のうつる事早し。
故に名とす○月とり目鏡、これ満月にむかひ、水を取るやうに仕やう有。
是も水晶の吉水にて玉をつくる。
水をとる事すこし口伝○五色目鏡、玉のうへを三角にし、すこし勾配に見る。
物の色五しきにうつる○七つ目鏡、六つ五つ、右みな同じ事なり。
一つのすかた七つ六つに見する事、玉を六角七角に中高にする、角の数に物のしな形をわかつて見するなり○横三つ目鏡、一つの物、横に三つに見ゆる○逆目かね、惣じての物さかさまに見ゆる。
但し筒にても作る。
筒なしも作る○八方目鏡、上下東西南北より来たる人をうつすに、ことことく玉の中に人影うつる。
おらんだ人、指にはめて指のかざりとす○日蝕目がね、日蝕を見る目がねなり。
肉眼にてまばゆくして拝みかたし。
水にうつしてもとくとは分明ならず。
この目鏡にて見れは目まばゆくからすして、その細交を拝する事つまひらかなり。
これ唐作の珍物なり。
他の物を見るには、羅をへだてたるがことしとぞ。
○爰に図する遠目鏡は、四枚玉四つ継の筒入廿里といふ所の図なり。
たとへは四つ継の時は、中の二つの筒には玉なし。
上筒と真の小筒とにのみ玉はいるなり。
その小筒も又ぬけて、玉の拭ひ折ふしの掃除もやるやうに製し置く。
上筒の末の玉も、上の押への金蓋をはづせは是も又玉は自由になる。
惣して遠目鏡の、四枚玉八枚玉といふも、みな真の小筒の仕かけなり。
八枚などいふに置ては、小筒も又二つになるやうに仕かけをく。
又小は元と末に、只玉を二枚にのみにするも有。
筒はまた全躰牛皮の製したる、たとは印籠の下地の如し。
されは唐ざいくの筒を打ほどき、皮のつぎ目、上ぬりの仕やう、ぬきさしの仕かけを見るに、つき目は只皮と皮との口をけぬき合にして糊付、その皮のうへには、うすき絹を漆にてかけ、そのうへをぬり上げたり。
筒の中まても奥口なく塗とをす。
大筒より小筒を引出す、その奥のとめは筒の端に、ただ少しの斗のこよりごときの耳を付たり。
上紋はすでに表にあらはれたる通、朱塗・紅皮・黒漆・青漆等に金紋、和作のまた及ばぬ尋常なる事たまたまはあり。
右これはみな上作の品。
又草なるひ至ては筒もあつ紙、あるひはうす板のまき筒等にして、表の化粧を専にし、肝腎の玉の仕かけは、それ程にも改めなくて、筒斗を永く太く製作す。
又漸二つ継などの和作の草の品、漸十丁・十五丁・一里には及かたし。
又同じ二つ継の大きさにても、唐作の品のよきは、二里・三里の堺をくまもなく見するもあり。
とにかくその物を得て、和と唐との堺を見わけて、上品下品をは売用すへし。
但し筆談斗にては委曲にはのへかたし。
〔『万金産業袋』(『生活の古典双書』五、八坂書房、昭和四十八年)〕

『万金産業袋』は享保十七年(一七三二年)に出版された三宅也来の著作であるが、この三宅也来という人物については京都の人らしいこと以外はなにもわかっていない。
本書は、内容は当時の手工業品について、その商標・産地から製造方法にいたるまでを詳細に述べた「一種の商品誌」であり、工商の手引になるだけでなく、消費者に対しても良質な商品知識を与えようというものであった。
したがってその記述は、実際の工房における実見を述べていることはいうまでもないが、それだけでなく、自ら同じやり方で追試を試みたりした場合もあって、かなり信頼のおけるものとなっている。

眼鏡については、巻三に「目鏡類」として、「此条下には老年若年目がねの品々、唐作和作の諸品をあけ図をのせて詮之」とある。
ここに載せられた眼鏡を見ると、眼鏡はもう玉細工の一分野ではなく、十分独立した産業となっていることがわかる。
同書においても、眼鏡類は「万玉類」、いわゆる玉細工とは独立して扱われているところを見ても理解できる。

以上、十七世紀末から十八世紀初めにおける眼鏡の職人的製造技術について見てきたが、肝心な研磨技術については記述がなかった。
それは『万金産業袋』に「製作口伝」とされた眼鏡が多いことを見ても、いわば職人的技術の究極のところは親方から弟子への口伝によって伝承されていたのであり、それを文章に書きあらわして一般化していくわけにはいかなかったのであろう。(続く)

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