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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第三十七回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第三十七回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は「商工案内」の世界についてです。前回はこちら

2 「商工案内」の世界ー明治初期における眼鏡屋
「買物案内」が江戸時代の商店広告だとしたら、「商工案内」は明治期の商店広告と考えていいだろう。
ただ、「商工案内」が商店の業種・屋号・場所を列挙しただけの、いわば「いろは」索引によって商店を探す字引でしかないのに対し、「商工案内」は銅版画による詳細な店舗図が一軒一軒の商店について描かれていることである。
したがって、それを通覧すれば、明治開化期の東京あるいは京都・大阪の景観を眺め、開化期の街の雰囲気を味わうことができるというものであった。
そこで以下、東京・京都・大阪の「商工案内」を見ることによって、明治初期の眼鏡屋の存在を見てみよう。

『東京商工博覧絵』
数多ある「商工案内」の中でも代表的なのは、なんといっても『東京商工博覧絵』第二編であろう。
同書は明治十八年、深満地源治郎によって編集発行されたものである。
その緒言には第一編の製本規約(第一条~第十条)というのがあり、その第七条では「彫刻其手数料共版面ノ精疎ニ拘ラズ一行ニ付廿銭ノ割合ヲ以テ半面ニ付三円ト定候事」と、掲載料についてふれている。
つまり、掲載を希望する商店は、銅版の彫刻料というかたちで掲載料を出すことになっていたようで、掲載料は半面で三円である。
明治十八年当時の東京精米平均相場が一石六円五三銭であるから、半面で三円という掲載料は大人一人の半年分の飯米に相当する額といえよう。
かなりの掲載料であるが、その分商店側は銅版画に対してかなりの注文を出すことができたようで、編者自身もことわっているように、その銅版画によって商店の「声明可否盛衰」を評価することはできないのかもしれない。

しかし、商店を描くにあたって銅版画工は、その商店の家屋敷全体が鳥瞰できるよう、店の正面からだけではなく、本来ならば表通りからは見えないような店の脇や裏の状況までも描いているため、商店の全体の有様を見れば、その店の「声明可否盛衰」の見当をつけることは、むしろ容易となったのではないかとも思われる。

ともあれ、『商工博覧絵』に掲載されているのは岩崎宗吉および佐野重助の二軒である〔図11-5〕。

11-5
当時の東京で眼鏡屋がどのくらいあったか明らかではないが、「明治七年以降、本邦眼鏡業者ノ増加セシコトハ東京ノミニシテ百五、六十軒ノ多キニ及ビ、云々」といわれたことからしても、二〇〇軒を下まわることはなかったと思われる。

『東京買物独案内』
なお、東京の「商工案内」としては、他に『東京買物独案内』があげられるが、「商工案内」としての価値は『東京商工博覧絵』にくらべて落ちる。
奥付によれば、『東京買物独案内』は明治二十三年の発行、撰者兼発行人上原東一郎、定価三五銭とある。
『東京商工博覧絵』より五年後の発行となっているが、内容は「いろは」引による商店案内で、簡単な営業内容と場所・商店名をあげているだけである。
つまり、江戸時代に出されていた「買物案内」と内容的に変わらないのである。
いわば『東京商工博覧絵』がその詳細な銅版画により明治期の新しい商工案内としての開明性をもっていたのに対し、『東京買物独案内』は前時代の買物案内の伝統を継承したものなのである。
『東京商工博覧絵』の眼鏡店が二店だったのに対し、こちらは次のように五店が掲載されている〔図11-6〕。

11-6
尾張屋栄次郎 日本橋区横山町三丁目
大隈源助 浅草区茅町二丁目
野村長之助 日本橋通二丁目(大隈支店)
村田長兵衛 日本橋区本町三丁目
鶴岡宗吉 浅草区黒船町

このうち、浅草黒船町の鶴岡宗吉は『東京商工博覧絵』における岩崎宗吉と同じである。
この五店の営業内容を見ると、旧来の玉細工を主業としてきたと思われる店は日本橋横山町の尾張屋栄二郎の一店だけで、あとの四店は測量器械・図引器械・時計・寒暖計などと一緒に眼鏡を扱っているのが特徴となっている。
そこに、江戸時代とは違う新しさが見いだされるといえよう。

『工商技術都の魁』
京都における「商工案内」として、まずなんといっても明治十六年に発行された『工商技術都の魁』をあげなければならない。
『工商技術都の魁』の商工案内としての価値は、銅版画による店頭風景・作業場などの挿絵を初めて使ったという点にある。
編輯者は石田有年、そして石田自身の手になる銅版画が京都における開化の気運を見事に表現している。
『工商技術都の魁』の装幀も薄い桜色を基調とした見事なものであり、いかにも工芸の都といった趣を示している。
ただ内容的には、やはり京都の伝統的な工芸類が圧倒的多数を占め、東京に見られるようないかにも文明開化期の商売といったものはいたって少ない。

京都は、明治維新以後の衰退を挽回しようとして、明治四年には日本で最初の本格的な博覧会を開くなど、積極的な殖産興業を行っていたのであるが、伝統産業の衰退には目を覆うものがあった。
たしかに『工商技術都の魁』にも開化期を象徴する近代的な商売がなくはない。
たとえば、時計・寒暖計・活版・洋酒・通運会社・写真・銀行・郵便局などいかにも近代的商売といえるものも目次を見る限りであるにはあるが、圧倒的多数は伝統的工芸を商売とする商店であった。

眼鏡商についても、『工商技術都の魁』には三店が掲載されているが、いずれを見ても東京のように時計・寒暖計とか測量機器・図引器械といった学術器械と一緒に眼鏡を扱うといった店ではないようである。
このうち、向与兵衛〔図11-7〕は通称「玉与」、天保二年版の『商人買物独案内』にも玉屋与兵衛として出ていた店であり、他の二店は森本亦一郎、吉田佐多衛である。京都の商工案内についていえば、すでに明治十一年に『売買ひとり案内』というのが発行されていたが、「イロハ」引きによる商店名があがっているだけで、『都の魁』に見られるような目新しさはない。

11-7
ここでも向与兵衛が掲載されているが、他の三人は堀井長兵衛、堀井喜兵衛、島本弁二郎である。

『商工技芸浪華の魁』
明治十年代の大阪の代表的な「商工案内」としては、明治十五年の『商工技芸浪華の魁』をあげるべきであろう。
大阪では、この他、明治十二年に『浪華諸商独案内』、明治十八年には『浪華商工技芸名所智録』、明治二十一年に『大阪買物便利』と各種だされているが、内容的には『商工技芸浪華の魁』に及ばない。

『商工技芸浪華の魁』は、大阪を東西南北に区分し、それぞれの区分の中で各職種をイロハ順に掲載している。
その中で眼鏡屋は、東十七に「赤松弥七」が、同じ東五十五に「和泉儀右衛門」「谷村治兵衛」が、北二十八に「梶彦兵衛」が、そして南四十三に「吉岡清治郎」が銅版画の店頭風景入りで掲載されている。
ともかく眼鏡類を商っている商店は以上の五店であるが、このうち、和泉屋は、文政七年の『商人買物独案内』にも掲載されていた老舗である。

この他、『浪華諸商独案内』には「ギ山平七」が「浪華商工技芸名所智録」には「多田吉兵衛」「森安嘉兵衛」が、『大阪買物便利』には「宮田宗助」が掲載されている。(続く)

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