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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第三十六回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第三十六回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は「買物案内」の世界についてです。前回はこちら

第11章 江戸・明治時代の眼鏡広告
1 「買物案内」の世界ー江戸時代の眼鏡広告
江戸時代の名店ガイド
元禄から享保にかけての商品経済の発展はめざましいものがあった。
十七世紀を通じて、玉細工の一つとして京・大坂・江戸あるいは長崎で始まった眼鏡づくりも、このような経済活動の活発化とともに発展していったことは間違いあるまい。
たとえば、あの八代将軍吉宗による享保改革のとき、成長する商品経済の動きを抑えるために仲間連合の結成が公認されたが、その仲間組合の結成を行った諸職人の中に「玉細工」があることも、その一つの例証としてあげることができる。

しかし、幕府による統制にもかかわらず、その後十八世紀を通じて商品経済はますます発展し、諸商人・諸職人の経済力は、十九世紀初頭の文化・文政期に、江戸という大都市を背景にした、いわゆる化政文化を生み出すまでにいたる。

このような都市における町人文化の爛熟は、各都市でさまざまな名産・名店を生み出していった。
そして消費者の需要に応じ、商品購入のための情報を提供する名店ガイドというべき各種の「買物案内」が出版されはじめたのもこの頃であった。
これらの買物案内は、第8章で見てきたような名所記や評判記の類とは本質的に違っていた。
それは、なによりも、まず個々の商店の側からする宣伝広告であることである。
名所記や評判記の内容は、単にその地域の名産・特産、あるいは名匠・名人の紹介であって、商品を売る側からする宣伝ではなかった。
それに対し「買物案内」は、発行者が商店からなんらかの掲載料を取って宣伝広告を載せるというやり方をとっている。
したがって掲載料の多寡によってであろうか、詳細な宣伝文や図版入りの広告があるかと思うと、商店名と町名だけの簡単なものと、じつに多様なスタイルが混在している。

そして、「買物案内」は文政期以後、幕末から明治初期にいたるまで「商工案内」と名称が変わったり、木版から銅版へと印刷方法も変わったり、あるいは、発行される地域も三都だけでなく全国の主要都市に拡大されるなどして、連綿と受け継がれていく。

以下、文政期から幕末、そして明治初期にいたる「買物案内」、「商工案内」の世界を通じて眼鏡屋の存在を見ていきたいと思う。

「江戸買物独案内」
江戸の買物案内としてまずあげるべきは、文政七年(一八二四年)、大坂の中川芳山堂が出版した『江戸買物独案内』であろう。
これは、大坂での『商人買物独案内』の好評に気を良くした中川芳山堂が出した江戸版と思われるが、上・下・飲食之部の三冊からなり、上巻で一一一四、下巻で一二五八、飲食之部で一五一の商店を掲載している。
ここに掲載された商店が江戸のすべての商店というわけではもちろんないが、二五〇〇余の商店を網羅している点において前例を見ない画期的な試みである。

ところで眼鏡屋であるが、下巻の四二九丁・四三〇丁〔図11-1〕にかけて次の七店が掲載されている。

11-1
美濃屋平六、美濃屋又七、美濃屋吉右衛門、伊勢屋伊兵衛、近江屋伊兵衛、玉屋吉次郎

当時、買物案内といっても、現在のように不特定多数の購買者を対象に出されたものではないだろう。
その序文にもあるように、この案内が対象としたのは、とくに遠国の、あるいは近在にあっても江戸に不案内の人たちであった。
その人たちが誂え物をしようとする人たちはかなり限定された。
たとえば地方の豪商・豪農といった人たちであろう。
したがって、ここに掲載された眼鏡屋は、地方の顧客の需要に応じることのできる江戸の眼鏡屋であったことはいうまでもない。

ところで案内を見ると、眼鏡屋とはいいながら扱っている品目は眼鏡だけではない。
ほとんどが「唐物」「紅毛物」の小間物を扱い、かつて眼鏡が玉細工の一つであったことを示すように「玉類緒〆」や「硝子」「ギヤマン」などを扱っている。
当時、眼鏡屋の看板を出していても眼鏡だけを商っていた眼鏡屋はなく、ここにもあるように、他の小間物・硝子細工を扱っていたのが常道であったし、「買物案内」に店の広告を掲載する場合、どれを主業とするかは商店のほうの意向で決まったという。

『商人買物独案内』(京都)
京都においても、『商人買物独案内』が天保二年(一八三一年)と嘉永四年(一八五一年)に出版されている。
掲載されている商店は、天保版で約一五〇〇、嘉永版で約九〇〇と、江戸の約二五〇〇には及ばない。
内容的に美術・工芸関係の商店が多いことは、なんといっても江戸と根本的に違う。
そこに近世後期の京都の特徴がよくあらわれている。
つまり、近世前期にもっていた手工業技術の先進性が失われ、今や観光と美術・工芸の都市として性格を変えていった結果を見ることができるのである。

ところで、眼鏡屋であるが、天保版・嘉永版ともに一〇店舗ずつが掲載されている。
天保版〔図11-2〕は次の一〇店である。

11-21 11-22
玉屋弥兵衛、玉屋勘兵衛、玉屋清兵衛(四条)、大坂屋与兵衛、清水屋九文堂、玉屋清兵衛(六角寺町)、玉屋与兵衛、玉屋夘兵衛、若狭屋万吉

買物案内における掲載順は、『江戸独買物案内』もそうであったが、職種ごとの「いろは」分けによっている。
したがって、眼鏡屋を主業としていれば「め」の項に掲載するのが普通である。
ところが京都の場合、眼鏡屋を主業としている店も含めてすべて「ひ」に、つまり「ひいどろ 玉細工 水晶 目がね」として掲載されているのである。
京都における眼鏡づくりが玉細工の一つとして行われた伝統をよく示しているといえよう。
「玉屋」という屋号が多いのもそのへんの事情をあらわすものであろう。

天保版・嘉永版についてその商店を比べると、変更があったのはわずかに二店。
そのうち一店は「玉屋清兵衛」(四条)から「玉屋定治郎」への代替わりであろうから、実質一店舗である(若狭屋万吉が消えて、清水屋次吉が加わった)。
二〇年間で一店しか変更がなかったというのは、かなり安定した営業を行っていたといえるのではないだろうか。

『商人買物独案内』(大坂)
買物案内の本家は何といっても大坂である。
大坂が全国経済の結節点であるだけに、大坂の商店に対する消費者の需要は全国的なものであったろう。
したがって、買物案内として個々の商店が広告を出し、商品購入のための情報を提供しようとする試みが最初に行われたのも理解できる。
現在残されている『商人買物独案内』で最も古いのは文政二年版のものであるが、次いで翌文政三年版とたてつづけに出版されているところを見るとかなり好評を博したのであろう。
この好評に応えて、買物案内の決定版ともいえる文政八年版が中川芳山堂から出された。
なお、このときは買物案内の江戸版である『江戸買物独案内』が同じ版元から出されている。

文政七年の『商人買物独案内』を見ると、「め」の項に七店、「ひ」の項に眼鏡屋四店が掲載されている〔図11-3〕

11-411-42
「め」の項 いづミや儀右衛門、小林季右衛門常行、大和屋新七、楠本屋新蔵、明石屋十兵衛、西村九次郎、金物屋宇兵衛
「ひ」の項 楠本屋新蔵、玉屋平三郎、いづミや儀右衛門、阿波屋弥七

このうち、和泉屋儀右衛門については、弘化三年版の『買物独案内』にも次のように出ている〔図11-4〕。

11-4
この他、明治になってからであるが、明治十五年の『浪華の魁』にも広告を掲載していることは後に述べるとおりである。(続く)

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