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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第三十二回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第三十二回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は眼鏡フレームの発展と日本人についてです。前回はこちら

3 眼鏡フレームの発展と日本人
ヨーロッパにおける眼鏡の形態
さきにあげた『万金産業袋』には、珍しくも、眼鏡フレームについてふれた記述があった。
それを見ると、象牙、鯨の髭、鵜の骨、真鍮など、さまざまな材質が使われていたことがわかる。
しかし、眼鏡フレームの形態については明らかになっていない。
そこで、ヨーロッパにおける眼鏡フレームの発展を見ることによって、日本で使用されていた眼鏡がどのような形態だったのか明らかにしておこうと思う。

眼鏡が発明されてから、一、二世紀の間につくられた眼鏡は今や現存していない。
しかし、その形態については絵画などで知ることができる。
ヴェネチア郊外トレヴィソの聖ニコロ協会の集会室にある有名な絵画には、眼と本の中間に単玉レンズをかざして本を読んでいる聖職者の姿が、その傍らには、二つのレンズをもった眼鏡を載せた別の聖職者が描かれている。
この壁画は一三五二年に描かれたもので、当時、単玉レンズと両眼用の眼鏡があったことの証明となる。

第1章の2でもふれたヴェネチアの眼鏡製造業者規則、すなわち一二八四年から一三一七年までのガラス製造業およびガラス研磨業に対するヴェネチア高等法院の布告の中でも、読取り用の石(リーディングストーン)と眼用レンズは区別されている。
最初の視力補正用具は、リーディングストーンと呼ばれる石を書物の上に置くことに始まったことはすでにふれた。
その後徐々にレンズは文字から離れ、眼に近づいていく。
眼と本の中間に保持された単玉レンズから両眼用レンズを使った眼鏡の出現までにはさして時間がかかっていない。

最初の両眼用レンズを使った眼鏡は、鉄の輪にレンズを入れ、輪から柄を出し、両眼の中心でこの柄を鋲で止める形態であった。
この形態を、リベット眼鏡(鋲止め眼鏡)と呼んでいる。
当初は、この鋲の部分を手でもつ手もち式であったが、すぐに鼻にのせる、いわゆる鼻眼鏡式が考案されている。
鼻にのせるのに鉄製は重いため、木製や角製も登場してくる。

少しおくれて、両眼部分とブリッジが固定した固定式眼鏡も出現し、リッジド・ブリッジ付きスぺクタブルと呼ばれる。
材質としては、鉄、金、銀などの金属の他、皮革、動物の骨などが用いられている。

一五〇〇年以前につくられた古版本(Inkunabel)の表紙にはめ込まれた皮革製のフレームは、この形態であり、現存する世界最古の眼鏡である。
また、ニュルンベルクの市参事会員であったウィリバルト・ピルクハイマーという人の使っていた皮革製フレームも現存している。

十五世紀に入り、リッジド・ブリッジの変形スタイルが開発される。
それは、ブリッジの部分を弓形にしたもので、弓形ブリッジ付き眼鏡といわれていた。
また、リベット眼鏡の変形として、眼鏡をハサミを開いたときのようにつくり、鼻の下で柄をもつハサミ眼鏡も出現する。
眼鏡の普及が高まるにつれ、それを固定する方法も色々と研究されてくる。
その一つが帽子に眼鏡を固定する方法である。
また、皮ひもを鉢巻きのようにして後頭部で結び、固定する方法も考え出されている。

日本人と眼鏡フレーム
十六世紀に入ると、再びリベット眼鏡が復活してくる。
しかし、今度は金属加工の進歩から、鋲で固定したものではなく、鋲を中心に可動し、鼻幅にあわせて調整できるようにしたものである。
これは、ヒンジ眼鏡(蝶番眼鏡)と呼ばれている。
ちなみに、京都大徳寺大仙院の「古眼鏡」はこの形態であり、また、久能山東照宮博物館の家康遺品はリッジド・ブリッジスタイルである。
このヒンジ眼鏡の形態は、一六〇〇年に成立したレーゲンスブルクの眼鏡製造業規則の手写本に記載されている。

十六世紀後半から十七世紀にかけて、フレームのこめかみ側に穴をあけ、ここに細紐を通し、紐を耳に結びつける形態が出現する。
私たち日本人には、古い眼鏡のスタイルとして最もなじみ深い形態である。
映画などで大久保彦左衛門がしばしば用いているので、読者諸兄もたぶんご存じのことと思う。
この形態は、スペイン人の考案といわれ、スパニッシュイタリアン型といわれている。
ある歴史家によれば、このスタイルは一五八〇年代にスペインの宣教師が中国にもちこみ、以来二〇〇年にわたり、中国人はこの形態を好んで用いていたという。

さて、ベルリン大学のグリーフ教授によれば、このスパニッシュイタリアン型に「鼻あて」をつけることを考案したのは日本人であるとしている。
博士によれば、モンゴル系の人種はヨーロッパ人より鼻根が低いのが特徴で、このため、ヨーロッパの眼鏡(スパニッシュイタリアン型)をかけるとまつげとレンズが接触してしまう。
そこでブリッジのところに、支え(鼻あて)をつくり、この支柱を鼻梁にのせて、レンズと眼(まつげ)の間に若干の空間ができるように工夫したといわれる。
確証となる文献があるわけではないが、理論として妥当なものであり、「必要は発明の母」という言葉もあるので可能性は高いといえる。
眼鏡の進歩発展の歴史の中で日本人が登場するのはこの場面だけである。

当時ヨーロッパ人々が眼鏡の形態についてどのように考えていたかをしる貴重な本がある。
一六二三年にスペインのコルドヴァで公証人をしていたダザ・デ・ヴァルデスという人が書いたもので、医師とその弟子の対話形式となっている。

弟子 眼鏡を鼻の真中にのせると、眼鏡が眼からはなれてしまうし、又鼻もはれ上ってしまうのです。

医師 その問題の解決方法としては、翼弁とヘラがついていて、それを帽子と頭の間にさしこめるようになった眼鏡を使うとよい。
そうすれば眼鏡は翼弁で支えられて宙に浮き、鼻には触れないし、正しくものも見ることができる。

弟子 そんなことは誰の前でも帽子を絶対に脱がなくてもいい王様しかやれないことです。
貧乏人の私などとてもできない方法です。
なぜなら、まず会釈をするだけですぐ落ちてしまうからです。
もしそういう欠点がなければ、きっと私はとっくの昔にそれをつくりに行っていたと思います。

医師 鼻先にひどく重い眼鏡をのせる人もいるが、そんなことをすると自由に会話ができない。
なにものせないのが自然の摂理であり、眼鏡をのせれば気分もよくないにきまっている。
それよりましなことは、眼鏡を紐で耳に結びつけている人たちといえるだろう。
〔Richard_Corson,”Fashions_in_Eyeglasses”,PETER_OWEN_LIMITED,1967,〕

もう一つ皮肉屋的文章を紹介させていただくと、「すべてのものは目的のためにつくられているので、その目的を果たすことが求められる。
鼻は眼鏡のためにつくられたもので、私たちには眼鏡というものがあるのだ」。

今、私たちが当然のこととして受け入れている、耳にかけるつる付き眼鏡が登場するのはいま少し後のことである。

つる付き眼鏡の登場
眼鏡が発明されてから約四五〇年ほど経て、ようやく眼鏡を固定するのに最適な手段が発見された。
つる付き眼鏡である。
これは、イギリスのアン王女の時代(一七〇二~四〇年)に、ロンドンの眼鏡商エドワード・スカーレットが、一七一七年から三〇年の間に完成し、発売したサイドアーム付き眼鏡である。
最初は、つるの部分が耳までのびたものでなく、こめかみ部分で止まっていた。
これは「自由に呼吸のできる眼鏡」と宣伝されていた。
当時の鼻眼鏡が鼻を圧迫していたので、こんなキャッチフレーズが生まれたのであろう。

こめかみで止まっていた「つる」を耳の方へのばすのはさして時間を要しなかった。
一七五二年、ロンドンの眼鏡製造業者、ジェームズ・アスキューは鼻やこめかみに不快な圧迫を加えない眼鏡を発明したと発表した。
この「つる付き眼鏡」は、最初、こめかみのところに蝶番をつけて耳までのばしたものであったが、後に、この蝶番を耳の後ろにつけて折りまげ、耳のうしろにもっていく方法が工夫され、今日の眼鏡フレームの原型となったのである。

こめかみ式のフレームは日本では長くおとろえることなく人気があった。
明治時代においても、日本髪を常用した婦人たちは、髪がみだれることのないこのスタイルを好み、「頭痛おさえ型」と呼ばれていた。

前述のサティリスト的言葉を用いれば、「耳は眼鏡を固定するために耳形をしている」といえるほど、今の私たちに抵抗なく受け入れられていることからも、眼鏡誕生以来、四五〇年余の歳月を経た十八世紀中葉の貴重な発明であった。(続く)

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