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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第三十九回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第三十九回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は明治三十年代の眼鏡広告についてです。前回はこちら

4 明治三十年代の眼鏡広告
資本主義の確立と広告
ここでは、明治三十年代の眼鏡広告をさまざまな広告媒体を通じて一瞥してみようと思うが、当時の眼鏡広告についての一般的特徴をあげておけば、それは「商品広告」ではなく「商店広告」であるという点である。
つまり眼鏡広告というのは眼鏡屋の広告であって、メーカーによる「商品広告」は少なかった。
最近になってようやく眼鏡業界にもレンズあるいはフレームメーカーによる「商品広告」が見られるが、商品特性からいって本来、眼鏡広告は「商店広告」であるべきものである。

ここで、定点を明治三十年代に限定するのには次のような理由がある。

明治三十年代というのは、まずなんといっても日本における資本主義の確立期であったということである。
それは結果として市民の生活に資本主義的な原理が浸透していくことであり、生活スタイルの変化は都市・農村を問わず起こった。
それは広告の分野においても同様である。
つまり、日清戦争後のこの時期も戦争前と同様、いわゆる「三大広告」、つまり売薬・化粧品・出版広告が上位を占めていることに変わりはないが、有力広告主とその広告商品を見れば明らかに日清戦争前と比べて大きな変化が認められる。
例えば、売薬広告について見れば、明治前期に広告業界を支配した岸田吟香の「精錡水」は「大学目薬」などの新薬によって完全に姿を消し、岸田の「精錡水」とならんで明治初期の広告業界を二分した守田治兵衛の「宝丹」も、新しい売薬会社が広告主として登場するに及び、その地位は相対的に低下している。
この頃登場した売薬会社として現在も営業活動を行っている会社として、津村順天堂(ツムラ)・三共・参天製薬・森下仁丹などが見られるように、明治三十年代は、従来の家内手工業的生産による漢方薬にかわって、機械的生産による新薬が相次いで登場してきた時代であった。
明治三十六年一月十四日の『時事新報』に三共商店の「タカヂアスターゼ」の宣伝広告が掲載されたのは、新薬の大型広告が東京の日刊紙に掲載された最初というが、まさに明治三十年代は製薬業における資本主義的大量生産、そして大量販売、そしてそのための宣伝活動の活発化が行われた時期として位置づけることができるのである。

明治三十年代の眼鏡広告
明治三十五年に博文館から出された浜田四郎『実用広告法』には、当時使われた広告媒体として、「新聞雑誌/引札/書籍目録/書籍奥付/営業案内/定価表/絵葉書・状袋/暦・引剝日記/鉄道客車広告/鉄道馬車広告/広告傘/団扇・扇子/印袢天・染手拭/楽隊行列/広告塔/ビラ/看板/芝居引幕」の以上一八種類があげられている。
この中で眼鏡屋にまず利用されたのは「看板」であり「ビラ」であり「引き札」である。

「ビラ」も「引き札」も江戸時代以来の広告媒体であり新しいものではないが、明治三十年代にあってもさかんに利用されている。
とくに商店広告を主とする眼鏡業界には、まだまだうってつけの広告媒体であった。
明治三十年頃と思われる眼鏡屋の引き札がいくつか残されているのでその中の一つを紹介しておきたい。

11-12
〔図11-12〕は朝倉眼鏡店の出した引き札である。
明治三十年前後のものと思われるが、亡父朝倉松五郎のウィーンでの製造技術の伝習から始まる口上は、レンズ製造技術の確かさを権威づけようとするものであろう。

新聞広告の登場
「看板」や「引き札」が江戸時代以来の伝統的な広告媒体であるとすれば、明治以後新たに現れた媒体は新聞・雑誌である。
なかでも新聞は一般大衆を対象とする印刷(文字)メディアとして、ラジオ・テレビなどの電波メディアが出現するまでは、マス・メディアの代表であった。
したがって、「近代広告史は新聞広告の発展が基軸となって展開する」といわれるように、広告媒体としての新聞は重要な位置を与えられているのである。
そこで、明治二十九年から三十二年までの『東京朝日新聞』を取り上げて、広告に眼鏡がどのように現れているのかを見ていこう。

まず、この期間に掲載された眼鏡広告を一覧すると次の通りである。
ただ、ここではあくまでも眼鏡をメインに宣伝している広告のみに限定した。

⑴明治29年1・15 吉沼又右衛門(東京市日本橋区兜町)
⑵     1・23 〃
⑶     2・29 天賞堂(東京市京橋区尾張町二丁目十六、十七、十八番地)
⑷     3・12 〃
⑸     3・15 福島商店(東京日本橋通二丁目十八番)
⑹     4・14 〃
⑺     4・25 吉沼又右衛門(東京市日本橋区兜町)
⑻     5・13 〃
⑼明治30年7・23 〃
⑽     8・3   加藤菊太郎(東京市京橋区竹川町十番地)
⑾     8・9   〃
⑿     8・29 吉沼又右衛門(東京市日本橋区兜町)
⒀     9・6   〃
⒁明治31年4・20 〃
⒂     4・22 天賞堂(東京市京橋区尾張町二丁目十六、十七、十八番地)
⒃     5・9   加藤菊太郎(東京市京橋区竹川町十番地)
⒄     5・9   吉沼又右衛門(東京市日本橋区兜町)
⒅明治32年1・14 〃
⒆     2・13 〃

11-1311-14
まず広告主を見ると、吉沼又右衛門、天賞堂、福島商店、加藤菊太郎の四店〔図11-13~16〕である。
そしてこれら四店はいずれも眼鏡だけでなく、時計、貴金属を取り扱っている。
また、店の所在地も京橋区・日本橋区といった当時の中心街にある点も共通している。

ところで、日清戦争後の新聞界は、明治初期に見られた「大新聞」と「小新聞」の接近による中新聞化、つまり新聞発行の企業化に基づく商業的な報道新聞の登場が見られた時期である。
『東京朝日新聞』も、このような傾向に即応して販売部数を確実に伸ばしていった。
ちなみに、明治三十年下半期(十月~三月)における一日発行部数は四万二〇七七部であり、一日あたりの広告料収入は一三二円、一行あたりの公表広告料は二五銭であった。

今試みに、この広告料の基準で吉沼又右衛門の広告料金を計算してみよう。
明治二十九年一月十五日⑴の場合で計算すると、行数三〇行、一行あたり単価はまだ二〇銭(明治三十年四月一日より二五銭に値上げ)であるから、しめて六円となる。
当時の割引率が三八・〇パーセントであるから、実質三円七二銭。
月二回の掲載として七円四四銭となる。

当時、『東京朝日新聞』に眼鏡広告を掲載している広告主は前述の四店である。
月一回四円弱の広告料を払える店はそうはなかったのであろう。
これらの店は、眼鏡だけでなく時計・貴金属をも兼業しており、しかも店が東京の中心街に立地するという条件なくしては、月々の広告はできなかったと思われる。

新聞広告の内容はおもに金・銀の眼鏡枠に対して付けられた価格掲載である。
レンズにはほとんどふれていない。
たしかに広告文には「…玉ハ一々丁寧に試験器に照し其正格なるものを選ぶものなれバ……」とあるが、金枠主体の価格掲載は四商店が時計・貴金属をおもに商っているためであろう。

ところで、天賞堂の二二金一七円二二銭という価格は、当時どのくらいの価値があったろうか。
明治三十二年当時の白米一升の値段が一五銭であるから、一七円といえば一石以上の米が買える計算になる。
つまり、当時最高級の眼鏡を買うお金があれば一人一年分の米には困らなかった。
当時の庶民生活で円を超える入金・出金というのはめったにあるものではなく、たとえば神奈川県高座町橋本村の地主相沢家の「金銀出入帳」を見ると、明治四十一年五月に「五月分村長報酬」として一一円六六銭六厘、「村長実費」として五円四一銭六厘の入金が見られる。
これを見れば実感として一七円の価値がわかるかもしれない。
つまり、二二金一七円二二銭という金縁眼鏡は、ちょうど村長の一ヵ月分の報酬に該当するのである。
したがって、このような高価な眼鏡をかけられる人というのがどのような階層に属していたかということが、おのずから類推されるというものである。

案内広告の登場
最後に、明治三十年代における広告の一例として、名店案内あるいは紹介といった類のものをみておきたい。
今でいうガイド・ブックである。
このようなガイド・ブックが「買物案内」という形で江戸時代に存在していたことはすでに見たとおりである。
ここに紹介する『東京名物志』(公益社、明治三十四年)は、広く「買物案内」や「商工案内」の系譜とは違う内容をもっている。
というのは、「買物案内」などは商店からする広告を単に集めただけであり、そこにはなんら価値判断を入れてはいなかった。
それに対して本書は、編者松本順吉による店の選択と解説記事をのせた、いわゆるガイド・ブック形式をとっている。
そこでは当然のことながら、編者の価値判断が行われているわけであり、そこに従来の「買物案内」とは異質の、つまり広告の分類でいえば案内広告の世界が展開する。
したがって、後に見るように、本書では広告は広告として別に掲載している。
本書で紹介された店の側からすれば、店の宣伝を無料で行ってくれたに等しく、現在グルメ・ブームでの有名店紹介のガイド・ブックと同じである。
案内広告といわれる所以である。

『東京名物志』では、「薬舗之部」に「鶴屋眼鏡舗」が次のように紹介されている。

鶴屋眼鏡舗(浅草区黒船町一五岩崎宗吉)
(電話浪花一一六七番、同二六二九番)
同 岩崎喜三郎 京橋区尾張町二ノ三
同 岩崎支店 浅草区森田町一二
同 岩崎支店 本郷区本郷五ノ一

眼鏡類販売店は都下各処に散在す。
而も就中品質の精良を以て有名なるものは当店にして、都下各処の本支店皆共に隆昌を極む。
当店は王子滝の川及び板橋に製造工場を有し、盛に諸種の眼鏡を製造しつつあり。
蓋し眼鏡の製造に蒸汽力及び水力を使用するは、本邦に在りて当店を以て矯矢と為す。
事業此の如く盛大なるが故に、其製品の精良なることの同業者に優るのみならず、洽く許多の種類を備ふるが故に、需要者は其望む所のものを選択し得るの益あり。
而して当店の本支店共に日に益盛昌に赴くもの、亦此等の特長あるに由るならん。
当店の製品は、医科大学其他諸病院に使用せさる。
其種目を挙ぐれば左の如し。
〔『東京名物志』〕

「鶴屋」は政府から蒸気力および水力による眼鏡の機械製造について嘱目されていた店である。
紹介文にもあるように、当時「鶴屋」はレンズ製造業者としては第一人者ということで、『名物志』が鶴屋を紹介したようである。

ところで、『名物志』では広告は広告として別途掲載していると述べたが、その広告の中に眼鏡屋の広告が二つあるので紹介しておこう。
この二店は本文では紹介されていない店であるが、いずれも「宮内省御用」を看板にしている。
〔図11-17〕の「万木九兵衛」は医療機器メーカーであり、〔図11-18〕の「玉宝堂」はその新作懐中眼鏡というアイデア商品を出している。
今では少なくなったが「六ツ折レ」といわれる折りたたみ式のフレームである。

11-1711-18
以上管見の限りではあるが、明治三十年前後の各種広告媒体に現れた眼鏡を見てきたが、これらを通してみていくと、当時の眼鏡商は二つのタイプに分けることができる。

まず第一に、時計・貴金属と一緒に眼鏡を商う商店である。
典型的な例としては京橋区尾張町の天賞堂がこのタイプである。
このような商店の場合、本業は貴金属商であるから、商売の重点は金・銀の眼鏡枠に置かれており、金額的にもかなり高価である。
したがって広告も社会的ステータスの高い購買層をねらって新聞広告を多用しているのが特徴的である。

第二は、レンズ製造技術の高さを売る店である。
たとえば朝倉眼鏡店のように、創業者がヨーロッパから伝習した近代的レンズ製法技術を継承し、内国博覧会等でその技術の高さを評価されているような店である。
広告的観点からすると、あまり大規模な不特定多数を対象とする広告は出していないようだ。(続く)

弊社では眼鏡のコレクションを数百点を展示した東京メガネミュージアムを運営しております。
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