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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第二十九回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第二十九回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は江戸・京都・大坂、三都の眼鏡屋についてです。前回はこちら

2 江戸・京・大坂、三都の眼鏡屋
繫栄した三都
近世は都市ーつまり城下町の時代であった。
城下町の出現は戦国時代にまでさかのぼることができるが、戦国時代の城下町は、その規模において、また家臣団あるいは商工業者の城下への集住度において、近世城下町の比ではなかった。
近世城下町は、領主による兵農分離あるいは商農分離政策によって、あるいは地子免除という都市優遇政策によって、ますます巨大化し、繁栄していった。
なかでも三都と呼ばれた江戸・京都・大坂は、幕府の直轄地としてその繁栄は目を見張るものがあった。
江戸は百万人の人口を数える当時世界一の大都市であったが、その人口の半分は武士人口であり、この非生産的な消費人口を抱えた巨大な消費都市であった。
そして大坂は「天下の台所」として、全国から物資の集まる巨大な流通都市であり、大衆必需品を生産する産業都市でもあった。

このような都市ー城下町の発展は、巨大な消費人口の需要に応じた産業を発達させずにはおかなかった。
もちろん、それら産業の中に眼鏡屋があったことはいうまでもない。
そこで以下、この三都における諸産業の発展と、その中での眼鏡屋の存在を見ていく。

京都
近世初期における産業の実態を知ることのできる史料は意外に少ない。
唯一、松江重頼の『毛吹草』が、寛永期における産業の実態を知る史料としているにすぎない。
本書は貞門俳諧の方式の書ではあるが、近世初期の経済構造を知る適切な史料がないために、その巻四は、近世初期、ほぼ寛永期の産業の実態を知るための格好の史料として、従来さかんに利用されてきたものである。

松江重頼(一六〇二~八〇年)は、大文字屋治右衛門と称する京都の旅宿業者であり、かつ松永貞徳門下の俳人であった。
『毛吹草』は、正保二年(一六四五年)、この松江重頼によって刊行された俳諧入門書であり、その巻四は、「諸国より出る古今の名物で聞き触れ見およんだものを載せる」と題して、諸国の名物・特産品などを国ごとにあげ、俳諧を詠む際の参考とした内容である。
その『毛吹草』巻四の洛中の名物・特産品を記した一節に「御幸町 玉細工 軸 目金数珠等」とある。

これを見ると、洛中の名物・特産品というのはなんといっても手工業製品によって占められているのが特徴的である。
つまり、当時の京都というのは、単に平安京以来の政治都市というだけでなく、古代以来の伝統的な手工業技術を独占する産業都市でもあった。
その京都の名物・特産品に玉細工というのがあった。

そもそも玉細工とは、琥珀・瑠璃・水晶・珊瑚・真珠などを磨いて装飾品としてつくったもので、氏姓制度のもとでは玉造部という職業集団が組織されていたように、その起源はかなり古い。
律令制国家でも、大蔵省の下に典鋳司が置かれ、金・銀・銅・鉄の鋳造とならんで玉造が行われていた。

ちなみに、いわゆる「遣唐使」として日本からの使節が中国へ渡る際にもっていった朝貢品のリストが『延喜式』に掲載されているが、その中に「出火水精」、つまり水晶のレンズがある。
おそらくこの水晶は、律令国家の支配下に存在していたことは間違いあるまい。
しかし、律令国家の衰退とともに、かれら技術者集団は国家的支配から自立して、寺院の需要に応じた生産を行ったりしながら近世を迎えたものと考えられる。

このような古代以来の伝統を背景としている京都の手工業者が、ヨーロッパからもたらされた眼鏡の製作を試みるとき、『毛吹草』に見られるように、玉細工の伝統の上に立って始めたのではないかと思われるのである。

ともかく、京都における眼鏡づくりがどのような経緯から始まったのか、これ以上明らかにすることはできないが、いずれにしても京都における眼鏡づくりは、その後元禄期までに一つのピークを迎える。
そのことは他の産業一般についてもいえることであり、十七世紀後半における京都の商工業の発展はめざましいものがあった。
その結果、京都のビジネス・ガイドともいうべき名所案内が相次いで出されるようになったとしても不思議ではない。
それも、単なる名所・旧蹟の紹介といった観光案内でなく、「諸師諸芸」「諸職名匠」の紹介に重きをおいた、まさにビジネス・ガイドとしての京都案内である。

京都案内書
近世初期の京都案内といえば、まず『京童』(明暦四年刊、一六五八年)が思い出されるが、これは仮名草子の名所記として、社寺の縁起・来歴を述べたものであった。
あしかに古歌を引用し、場合によっては自作の狂歌・俳諧・長歌などを載せた読み物としての興味があるが、当時の産業の実態を知る手がかりとしては役には立たない。

むしろ、そのような目的としては、『京童』は、当時、仮名草子の代表的作者である浅井了意の筆になる京都案内・名所記である。
これは名所記といっても、単なる寺社・名所・旧蹟の案内ではなく、町々の商工諸職の案内を主とする、きわめて実用的な「町名つくし」である。
とくにその挿絵は、本文を理解する補助として挿入されたものであろうが、当時の京都の商工業の実態を描いたものとして、それだけでも価値が高い。
その中に、「四条坊紋通」、通称「たこやくし通」の挿絵〔図8-1〕があるが、その下段に眼鏡屋が描かれている。
8-1
『京雀』の本文には、四条坊門通に眼鏡屋が多いといった説明がないが、延宝六年(一六七八年)に刊行された『京雀跡追』には、『御幸丁たこやくし下丁・たこやくし寺丁西へ入」に「たま細工」および「目かねや」があることがはっきりと出ている。

また、四条坊門通の案内にも、次のように「目かねや」の多いことがあげられている。

四条坊門通 たこやくしとをりと云寺町通を西へ
○やくし前の町○万たま細工目かねや多○ちせやせんやありかんばんあり高山
〔『京雀後追』(『新修京都叢書』第一巻、臨川書店、昭和四十二年)〕

『京雀跡追』は『京雀』の記事を簡略にして、すこし増補を加えたものといわれるが、京都の商工業の繁栄ぶりを記している点において『京雀』よりは詳しく、とくに「いろは引き」による商工諸職の部分は、まさに京都商工業者一覧であり、当時の京都の繁栄をうかがうに足るものである。

貞享元年(一六八四年)の刊行になる黒川道祐の『雍州府志』は、山城国の地理・沿革・寺社・土産などを記した漢文体地誌であるが、その「土産門」にも次のような記述がある。

玉 石 具 御 幸 町三 条 北多 玉 人 水 精井 珍 石以 金 剛 砂 麿 琢 之 作 雑 品 物 是 請 玉 屋 金 剛 砂 出 自 太 和 国金 剛 山 汎 此 処 所 製之靉靆 勝 蛮 舶所 載 来 者 靉靆 眼 鏡 之一 名 也
〔『雍州府志』(同前第一〇巻、昭和四十三年)〕

黒川道祐(?~一六九一年)は、江戸時代前期の医者である。
経学を林羅山に、医学を堀杏庵に学び、広島藩の医官となった。
その後、官を辞して京都に住み、著述に専念したという。
本書は、山城国の地誌としては「最初の総合的組織的地誌」として評価が高い。
というのも、他の地誌のように神社・仏閣・名所・旧蹟の紹介に止まらず、「土産門の一項を設けて、商業・生産延いては当時の生活にまで記述を及ぼして」いるからである。
その意味で、本書は和風漢文で書かれているが、『京雀』あるいは『京雀跡追』と性格を同じくするものである。

ここには、御幸町・三条の北に玉細工人が多いとあり、しかも京都で製作される眼鏡は舶来品より優れているとある。
もしこれを額面どおりに受け取れば、京都の玉細工の技術水準はかなり高かったものといえよう。
なお、水晶などの玉石を磨く研磨剤としては、大和国と河内国の国境となっている金剛山系から出土する金剛砂を使うのであるが、金剛砂の使用はかなり後まで、というより近時でもレンズ、プリズムの粗削り加工の段階で使用している。
天然の金剛砂は酸化アルミニウムを主成分としているが、酸化鉄・ケイ酸を含んでいるため赤色をしている。

さらに元禄五年(一六九二年)の刊行になる『万買物調方記』には、

▲京玉細工
目かね しゆれんけ 石をじめ
御幸丁蛸薬師上ル下ル二丁
蛸薬師御幸町西東二丁
四条かハら町西へ入丁
〔『万買物調方記』(『未刊文芸資料』第二期、昭和二十七年〕

とある。これを見ると、眼鏡が玉細工の一つとしてつくられていたことは、先にあげた『京雀』、『京雀跡追』、『雍州府志』などにてらしても明らかであろう。

なお、玉細工人の居住地も蛸薬師前から西に向かう、いわゆる「蛸薬師通」と「御幸通」が交差する地点を中心にして東西南北二丁に分布していることは、いずれの地誌にてらしても共通している。

以上、まことに断片的な史料を通じてではあるが、京都における眼鏡づくりが、「玉細工」という古代以来の伝統的産業を踏まえて発展してきたことが理解されよう。
そして、京都における眼鏡づくりは、十七世紀を通じてその技術的先進性を維持していたと考えられるのである。

江戸
古代以来の伝統産業と結びついたかたちで発展してきた京都の眼鏡づくりとくらべると、江戸の眼鏡づくりはかなり遅れて出発せざるをえなかったと思われる。
たとえば『毛吹草』の武蔵国の特産物を見ると、ほとんどが農産物と海産物で占められている。
かりに『毛吹草』の記述が畿内にかたよっていることを割り引いたとしても、この記述からして、江戸が手工業生産においてはるかに京都に遅れていたことは明らかであろう。

しかし十七世紀後半ともなると、江戸においても町人の業種別案内が出されるようになる。
もちろん、十七世紀前半における江戸の案内書がなかったわけではないが、それらはいずれも見聞・名所記の類で、商店案内といったものではなかった。
本格的な商店案内書が出されるには、やはり江戸における商業・手工業の発展がなければならない。
その最初は十七世紀も後半、貞享四年(一六八七年)の『江戸鹿子』であろう。

『江戸鹿子』には次の記載がある。

玉細工師
南伝馬町一丁目 玉屋庄左衛門
神明前三嶋丁 同作右衛門

眼鏡師
京橋南四丁目 印刷屋市郎兵衛
〔『江戸鹿子』(『東京市史稿』産業編第七、昭和三十五年)〕

『江戸鹿子』と『万買物調方記』
この『江戸鹿子』とほぼ同時期に出されたのが『万買物調方記』である。
外題には「諸国買物調方記』、序文には「買物調方三合集覧」と題名はいろいろあるが、本書は、先に京都の項でも取り上げたように、江戸だけの案内書というわけではない。
序文には、『京羽二重』、『江戸鹿子』、『難波鶴』、『難波雀』などを参考にして編まれたとあるように、京・江戸・大坂における商工諸職を一つにまとめた案内書である。
出版されたのは元禄五年(一六九二年)、出版の目的は「京都・江戸・大坂に於ける古来有名な商売の数々と諸国に知られた名物の品々を求めるに当たって、その所と物を求め安からしめん」というものであった。
その中の「諸職名匠買物重宝記」に京都・江戸・大坂の玉細工・眼鏡師の一覧が出ているが、江戸の場合は次の三名があげられている。

▲江戸玉細工
南伝馬町一丁目 玉や庄左衛門
神明前三嶋町 作右衛門
▼同 めがね師
京橋南四丁目 印判や市郎兵衛
〔『万買物調方記』(『未刊文芸資料』、第二期、昭和二十七年)〕

ここに見るように、『万買物調方記』が、先にあげた『江戸鹿子』の記載を踏まえて出されていることは明らかであろう。
ただここで特徴的なのは、江戸においては玉細工師と眼鏡師をが分けて記載されていることである。
後に見るように、江戸の玉細工師が眼鏡をつくらなかったわけではないことからすると、「京橋南四丁目 印判や市郎兵衛」はとくに眼鏡だけを専業としていたのであろうか。
つまり、「印判や市郎兵衛」は名匠として、その眼鏡製作の技術の良さが巷間に流布していたということになる。

『日本国花万葉記』
次に、『万買物調方記』の五年後、元禄十年(一六九七年)に刊行された『日本国花万葉記』であるが、その「江府中諸職人家所付」は、貞享版の『江戸鹿子』、元禄版の『江戸惣鹿子』をもとにつくられたとされるが、それを見ると、玉細工師・眼鏡師ともに『万買物調方記』と同じ人物があげられている。

玉細工師
玉や庄左衛門 南伝馬町一丁目
玉や作右衛門 神明前三嶋丁
眼鏡師
印判や市郎兵衛 京橋南四丁メ
〔『日本国花万葉記』(『古板地誌叢書』三、芸林社、昭和四十二年)〕

ここに見える玉細工師はいずれも屋号玉屋となっているところを見ると本・分家の関係かもしれない。
また、「神明前三嶋丁」というのは芝増上寺の門前町であり、後に見るように、この地域には玉細工師・眼鏡師・金工などが大勢居住していたことが知られている。

このように、膨大な消費人口をかかえた江戸であるがゆえに、十七世紀も末になれば上方に劣らず手工業技術の発展が見られるようになったのである。

大坂
近世初期の大坂はまさに「天下の台所」であった。
当時の大坂は、百万石をこえる蔵米をはじめとする全国の物資が集中する流通都市であっただけでなく、その蔵米を担保とする大名貸しや生産地問屋への前貸しを行う金融都市でもあった。
それだけでなく、大坂が大衆必需品の生産を行う産業都市であったところに大坂の特色があるとされる。
この優秀な加工業の存在が、大坂を全国経済の結節点たらしめていたのであり、眼鏡づくりもその加工業の一つとして位置づけることができるであろう。

さて大坂の眼鏡屋であるが、延宝七年(一六七九年)三月開版の『難波雀』に次の記事がある。

目かねや 伏見唐物町
〔『難波雀』〕

この「伏見唐物町」というのは、伏見町と唐物町ということであろう。
伏見町は高麗橋と道修町に挟まれた町である。
高麗橋は、その一丁目には岩城升屋・三井越後屋といった著名な呉服屋が並んでおり、道修町は現在もそうであるが薬種問屋が集中している「薬の町」である。
地図を見ると、伏見町にも、その西側には長崎唐物店や呉服店があったようである。
また唐物町は、南本町と北久太郎町に挟まれた町であり、現在阪神高速大阪東大阪線が通る下あたりになる。
地図によれば、この町は革細工商・足袋屋・竹細工人といった職人の町といった印象が強い。

『難波雀』の記載は以上であるが、同じ延宝七年の五月に出された『増補難波雀』には「諸商人諸職人売物所付」として次のようにある。

たまや 京玉や
伏見町八丁目 八郎兵衛
〔『増補難波雀』〕

先の『難波雀』ではただ「伏見唐物町」と、漠然と記載されていたが、『増補』版では「伏見町八丁目」と場所も特定され、職人の名前も明らかにされている。
これによれば、八郎兵衛は玉細工人であること、しかも「京玉や」とあるように、大坂の玉細工は京のそれを継承したものであることがわかる。
つまり、大坂のような新興都市には、玉細工という古代以来の伝統的な手工業技術はもとより存在しなかったのである。
もちろん、玉細工人であっても眼鏡づくりをしていたことは京とかわらないであろう。

そして元禄五年の『万買物調方記』には玉細工人として次の二人があげられている。

▲大坂玉細工
びんご町 うちわや忠兵衛
伏見町八丁目 八郎兵衛
〔『万買物調方記』(『未刊文芸資料』第二期、昭和二十七年)〕

備後町は瓦町と安土町に挟まれた町である。
そして、五年後の元禄十年の『日本国花万葉記』巻第六之二、「諸職人商人買物取付いろは分」によれば、次の二店が記載されている。

玉磨や 伏見町八丁目 八郎兵衛
目かね 伏見唐物町かうらい橋壱丁目
〔『日本国花万葉記』(『古板地誌叢書』三、芸林社、昭和四十ニ年)〕

以上見たように、大坂における玉細工人・眼鏡屋は船場と呼ばれた地域に集中して存在していたことがわかった。
しかも、それは大坂独自に成立したというのではなく、京の技術的影響を受けて成立したように思われるのである。(続く)

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