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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第二十一回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第二十一回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は川原慶賀画についてです。前回はこちら

5 川原慶賀画ー『生業と道具図』と『職人尽し図』
シーボルトの御用絵師
川原慶賀は、日本人にとってあまりなじみのない画家である。
まずなんといっても、彼の作品のほとんどが日本になく、その大多数がオランダのライデン国立民族博物館をはじめとする海外にあるという事実は、慶賀の存在を特異なものとする最大の要素であろう。
ところが逆にそれが、長崎の町絵師としておそらく無名のまま一生を終わるはずであった慶賀を、後世、再び世に出させる要因でもあった。

川原慶賀は、天明六年(一七八六年)長崎に生まれている。
父は香山と号する絵師であり、おそらく慶賀は父の手ほどきを受けて絵師として出発したと思われる。
次いで、石崎融思に師事した慶賀は、文化八年(一八一一年)、おそらく融思の推挙によってのであろうが「出島出入絵師」となっている。
文政六年(一八二三年)のシーボルトの来日、これが後に慶賀の運命を決定づけることになる。

シーボルトについてはあまり多くを語る必要はないだろう。
ドイツ人であるシーボルトが、オランダ政府から日本の科学的な総合調査を密命され、オランダ領東インド陸軍外科少佐として日本にやって来たのは周知の事実である。
彼は、長崎出島でヨーロッパの最新の医学を門弟たちに教授する一方、この門弟たちを使って日本に関する国情調査を行った。
つまり、シーボルトはそれぞれ弟子たちに課題を与え、それをオランダ語でレポートさせるというやり方をして日本の官憲の目を眩まそうとしたのである。

もちろん弟子を使うだけでなく、機会があれば自ら調査を行ったことはいうまでもない。
とくにオランダ商館長の江戸参府は、シーボルトは助手として授記性を連れていくとともに、絵師として川原慶賀を同道させ、道中各所で写生を行わせている。
シーボルトは、道中で、あるいは江戸で彼の名声を慕って集まってくる学者たちと密接な関係をもった。
シーボルトは彼らに最新の西洋医学を教え、逆に彼らから多くの情報を得たのである。
シーボルトの情報収集方法は、彼に近づいてきた日本人にその欲しがる物品を贈与して、その代償として物品を要求するというもので、時には熱心ではあるが、時には強引でさえあった。
たとえば、開瞳薬を欲しがった眼科医の土生玄碩からは葵の紋服と帷子を入手し、クルーゼシュテルンの『世界一周記』を欲しがった天文方の高橋景保からは伊能忠敬の作成になる日本沿海測量図の模写を入手するといったやり方であった。
そしてこのような情報収集が幕府の許容範囲を逸脱していたことはいうまでもなく、結果、シーボルト事件を引き起こすこととなったのは周知の事実である。

このようにしてシーボルトが収集した多くの資料は、便船によってそのつどオランダ本国へ送られたのである。
現在、シーボルトのコレクションはオランダのライデンをはじめヨーロッパ各所に散在しているが、それらコレクションの種類の豊富さは、今も私たちを驚かせる。
それは、いかにシーボルトが熱心にかつ強引に資料収集を行ったかを証明するものである。

さて、川原慶賀であるが、彼の作品は二つの性格の作品群に分けることができるという。
一つは日本人の依頼によって描いた洋風画であり、一つはシーボルト、あるいはブロムホフ、フィッセルなどオランダ人(ただしシーボルトはドイツ人)の依頼によって描いた日本のあらゆる分野にわたる風俗画である。
陰里鉄郎氏によれば、慶賀自ら画家としての興味から描いた作品はないという。
その意味でも慶賀は特異な画家といえよう。

次に挙げる「蘭人絵画鑑賞図」〔図6-21〕は、第一の、日本人の依頼によって描いた洋風画の一例である。

異人
この絵は、長崎酒屋町の洋品店牛島屋の依頼で装飾用に描いたもので、慶賀晩年の作品である。
慶賀は文政十一年のシーボルト事件によって入牢、その後許されて長崎に居住するが、天保十三年(一八四二年)再び罪を得て江戸並びに長崎払いを命ぜられている。
しかし、いつのまにか長崎に舞い戻ったらしく、酒屋町四十七番戸に居住し、姓も田口と改めている。
この作品もおそらく酒屋町居住時代のものであろう。

ところでこの「蘭人絵画鑑賞図」であるが、ここは三種類の眼鏡が描かれている。

中央の人物が手に持っているのが「単玉眼鏡」で、形態としては十三世紀からある古いスタイルである。
一番奥の人物がかけているのは「リッジド・ブリッジ眼鏡」で、ヨーロッパでは十四世紀に誕生している。
手前の人物がもっている、やや特殊な形をした眼鏡は「ハサミ眼鏡」で、十五世紀の誕生である。
したがって、この絵には、十五世紀までに誕生した三種類の眼鏡がはっきりと描き分けられている。
この「蘭人絵画鑑賞図」はボワイの一八二五年の作品の模写である。

生業と道具図
さて、川原慶賀の第二の作品群、つまりシーボルトをはじめとする外国人に依頼されて描いた作品群の中に、「眼鏡屋の道具」という画がある。
これはシーボルトに依頼されて描いた『生業と道具図』の一枚である。
『生業と道具図』は画冊に張られた五八枚からなる一連の各種生業と道具の絵巻である。
たとえば、道具で見ると、茣蓙屋・煙草屋・仕立て屋・左官・傘屋・百姓・織屋・大工・桶屋・鋏屋・銀細工・鼈甲細工・数珠作り・畳屋・足袋屋・絵師・紙梳き・石工など、諸職人の使用する道具が仔細に描かれている。
私たちは、当時の職人たちが使った道具の多様さに驚くとともに、それを子細に描いている川原慶賀のリアリズムに敬服せざるをえない。
そこには出島出入絵師としての面目躍如たるものがある。

川原慶賀は出島のオランダ商館への出入りが認められた最初の絵師であるという。
そこで慶賀は、フロムホフあるいはフィッセル、シーボルトなどの要求に応えて大量の写実画を描くことになるわけである。
『生業と道具図』も、日本のありとあらゆるものを記録しようとするシーボルトの要求で生まれたものであろう。
後にシーボルトはこの道具図の中から、大工道具の図を彼の大著『日本』に採用しているのである。

さて、「眼鏡屋の道具」ではあるが、画についた付箋で、スリサラ・トキダイ・ハサミ・コンゴウシャラ・サオハリボウ・ヤキイン・カギバシ・キリダシ・コガタナ・コンパス・シャクダチ・ヤスリ(?)といった品々が描かれていることがわかる。

これらの道具の中にはレンズの研磨だけでなく、眼鏡枠の製作のための道具もあるのだろう。
というのも、シーボルト・コレクションには川原慶賀の『職人尽し図』と呼ばれる一連の職人図もあるが、その中に「硝子細工」という画がある。

これを見ると、看板には「硝子御細工処 玉谷」とあって、硝子吹き職人を描いた画のように見えるが、暖簾には「眼鏡鏡所」とあって眼鏡屋の画ともなっている。
その眼鏡屋の方を見ると、一人の職人はスリサラでレンズを磨き、もう一人の職人はレンズを眼鏡枠にはめる作業をしている。
その作業台に置かれている道具は、コガタナとカギバシである。
つまり、コガタナ・カギハシ・キリダシ・ヤキインなどは、おそらく眼鏡枠の製作に使われていたのであろう。

ただ注意したいのは、この「硝子細工」と呼ばれる職人画は、実在する店を忠実に描いたというものではないかもしれない。
いささか不自然なところもあり、眼鏡ができるまでの工程を一枚の画の中に押し込めたのではないだろうかと思われる。

ともかく、われわれは川原慶賀という特異な絵師のおかげで、そして慶賀を使い、日本のさまざまな風俗を描かせたシーボルトのおかげで、当時の眼鏡屋の道具を知ることができるのである。(続く)

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