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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第二十二回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第二十二回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は黄表紙の眼鏡についてです。前回はこちら

6 黄表紙の眼鏡
十八世紀後半の江戸の社会風俗をうかがうのに黄表紙ほど格好の素材は他にないのではないだろうか。

そもそも黄表紙とは、草双紙のある一時的の呼び名である。
つまり安永四年、恋川春町の『金々先生栄華夢』が出版され、従来童幼婦女の読み物であった草双紙は、一挙に大人の読み物として、江戸文芸の第一線に登場して以来、文化三年、式亭三馬の『雷太郎強悪物語』の出版まで約三〇年間の草双紙を黄表紙と称している。
この間約二〇〇〇種以上の作品が出版されたというが、その魅力は、なんといってもパロディーの面白さ、あるいは世相諷刺の面白さにあった。
それとともに挿絵の面白さも忘れてはならないだろう。
それは本文を理解するうえでなくてはならない存在なのだが、私たちにとって、当時の社会風俗を知る格好の素材ともなっているからである。

黄表紙というのは必ずしも江戸時代当時の事柄を題材としているわけではない。
『金々先生栄華夢』は、中国の故事に基づく謡曲『邯鄲』の「盧生の夢」を翻案したものである。
舞台は安永四年の江戸に置き換えられ、挿絵も当時の社会風俗が繊細な描線をもって写実的に描きこまれている。
しかも、画工は当代一流の浮世絵師でもあった恋川春町その人となれば、読者は、その新鮮な感覚の絵と文を一体化して楽しむことができたのである。
このように、黄表紙の挿絵は十八世紀後半の江戸の社会を写実したものとして、その風俗を知る一つの資料として利用できるのである。

そこで以下、この黄表紙の中で、眼鏡がどのような場面で出てくるか、そのいくつかの例を見てみたいと思う。

黄表紙に描かれた職人
黄表紙の中で、眼鏡をかけた人物が登場する場面として、まず職人を描いた次の二つの作品、芝全交作・北尾政美画『拝寿仁王参』(寛政元年、一七八九年)、山東京伝作画『照子静頗梨』(寛政二年、一七九〇年)を取り上げてみよう。

『拝寿仁王参』は、江戸碑文谷の仁王尊信仰に取材した作品である。
碑文谷の仁王尊とは、経王山王寺(現円融寺)の仁王門に安置された二体の金剛像をいうが、天明末年からが大流行し、その熱狂の様子は、曲亭馬琴の『燕石雑志』などの随筆にも紹介されるほどであった。
しかし、その流行はかなり突発的なもので、わずかばかりの期間で終わってしまったようである。
『拝寿仁王参』はこの仁王尊信仰にあてこんだ芸者たちの祈願を、仁王尊が荒唐無稽な治療によって成就させるという筋立てによって、神仏信仰に対する辛辣な諷刺となっている。
6-22〔図6-22〕はその冒頭の場面であり、仏師の工房を描いたところである。
その仏師が眼鏡をかけている。
画工の北尾政美とは、あの『職人尽絵詞』の作者鍬形蕙斎のことである。
じつは『職人尽絵詞』にもこの仏師の工房と同様の場面が描かれており、肉筆の『絵詞』とくらべると、むしろ木版の黄表紙のほうが写実的である。
ただ、描かれた工房の雰囲気はかなり似通っており、おそらく同じ工房がモデルになっているのであろう。

6-23
〔図6-23〕の『照子浄頗梨』は、小野篁の地獄巡りの伝説に拠りながら、当時の世相・風俗を地獄の様子に付会させながら、寛政の改革政治にとまどう武士や庶民の姿を「穿った」作品である。
画工は作者の山東京伝その人である。
山東京伝(北尾政演)についてはいうまでもないであろうが、浮世絵師としても一流であり、一四、五歳で北尾重政の門に入り、鍬形蕙斎(北尾政美)とは兄弟弟子のあいだがらであった。

以上の二作品に眼鏡をかけた職人が描かれていた。
眼鏡の形式については、リベット式眼鏡かと思われるが、その細部についてまでは残念ながらよくわからない。

老人と眼鏡
次に山東京伝・北尾政演画『孔子縞于時藍染』(寛政元年)から、老人が眼鏡をかけている場面を見てみる。

天明七年六月、老中職に就任した白川藩主松平定信は、十一代将軍家斉を補佐して、いわゆる寛政の改革と呼ばれる改革政治にのりだした。
定信は前代の田沼政治を排し、学問・武芸を督励し、倹約を奨励するなど退廃した士風の引き締めをはかった。
朱子学を幕府の正学としたのも思想面におけるそのあらわれであった。
このような改革政治に応じて変わる世相を「穿った」のがこの作品である。

山東京伝は、寛政の改革による不景気な世相を、逆に金満の世相におきかえて、金をもっていることを悪徳とする状況の下に、とにかくもっている金を人に押し付けようとする話を展開する。
〔図6-24〕は女郎買いで散財したのではなく、逆に金を押しつけられた息子が、親に迷惑をかけまいと勘当を申し出るが、いっこうに許されないという場面である。
親は今しがたまで眼鏡をかけて書見していたのであろう。
眼鏡をはずして息子の申し出を聞いている図となっている。

このような眼鏡をはずして耳からたらしている図というのはかなり珍しいのではないだろうか。
この絵を画いた北尾政演は、作者の山東京伝その人であるが、描線のかなり細かい絵であり、眼鏡の形式もかなり明瞭に見てとれる。

見世物と眼鏡
江戸時代においても、芝居を、あるいは見世物を楽しむのに眼鏡がなくては叶わぬ人は大勢いたであろう。
意外に、芝居見物といった場面で眼鏡をかけた図というのは少ない。
6-25
〔図6-25〕の『天下一面鏡梅鉢』(唐来参和作、栄末斎長喜画)の、麒麟の見世物を見物している図には、眼鏡をかけた人物が見える。
同書は、山東京伝の『孔子縞于時藍染』と同じ寛政元年に出版され、話の趣向もまったく同じで、松平定信の改革政治を逆手にとったものであった。
しかし、山東京伝には何のお咎めもなかったのにたいし、同書は幕府から絶版を命じられている。
それだけ作法が稚拙で、政治に対する「穿ち」が単純だったのであろう。

図は菅原道真の徳が世の中にゆきわたり、文武両道・天下泰平の聖代となったありがたい日本の風俗の一つとしてあげられたものである。
もちろん、麒麟というのは空想上の動物であり、このような見世物が実際にあったわけではない。
その麒麟を見に来た見物人の中に眼鏡を手にもって見ている人物がいる。
耳にかける紐がぶらさがっているのが見える。
どちらかといえば、近方作業時に利用するいわゆる老眼鏡を描いた画が多い中、これは珍しく遠方用(多分近眼用)眼鏡をあらわしている。

以上、黄表紙から、眼鏡をかけた人物図を取り上げてみた。
「職人尽絵」と同じ状況の下で使用されている図もあったが、それだけではなく、老人がかけている図や、見世物見物といった公衆の面前で使用している図も見られた。
これらは、近世後期における市民文化の繁栄の中で、眼鏡が一般大衆にまで普及していたことのあらわれであろう。

小道具として使われた眼鏡
以上見てきたように、黄表紙の挿絵は、当時の江戸の社会風俗を知るために便利であった。
しかしそれだけでなく、次の挿絵〔図6-26〕に見られるように、眼鏡を小道具として使うという例も見られるので紹介しておこう。

6-26
挿絵は、天明八年(一七八八年)に刊行された山東京伝の『時代世話二挺鼓』からとったものである。
これは、天明四年三月に江戸城中で起こった、若年寄田沼意知が佐野善左衛門政言に殺されるという、いわゆる田沼事件に題材をとって、それを巧みに婉曲化しながら世相を穿った作品である。

作品の筋立ては、平将門が七人の姿をもつという伝説に基づきながら、この将門の七に対して藤原秀郷が八で対抗するという趣向をとる。
つまり、将門の七と田沼の家紋である七つ星を結びつけているわけである。
最後は秀郷が将門の首をはね、このとき切り口から七つの玉が飛び出すが、これも田沼の七つ星の崩壊を暗示している。
そして、秀郷は浅草観音に絵馬を奉納し、将門の霊を神田明神に祭るというところで終わる。

挿絵は、秀郷が七人の将門に対抗しようとして、駒形の眼鏡屋で買ったという八角眼鏡で、姿を八つに見せている図である。
将門が手にもっているのが八角眼鏡である。

浅草駒形の眼鏡屋といえば、後出(第11章の1)の『江戸買物独案内』(文政七年、一八二四年)には「御眼鏡所」として本家・美濃屋平六の店があげられているが、芝居立てとして、この店で買ったということなのであろう。

八角眼鏡というのは、数眼鏡の類で、三宅也来の『万金産業袋』に、次のように説明がある。

〇七つ眼鏡 六つ五つ、右みな同じ事なり。
一つのすかた七つ六つに見する事、玉を六角七角に中高にする、角の数に物のしな形をわかつて見するなり

数眼鏡については、第5章の3ですでにふれた。(続く)

弊社では眼鏡のコレクションを数百点を展示した東京メガネミュージアムを運営しております。
現在事前予約にて受付させていただいております(平日10:00~16:00 土・日・祝日閉館 入場料無料)
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