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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第二十五回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第二十五回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は西鶴『好色一代男』と望遠鏡についてです。前回はこちら

2 西鶴『好色一代男』と望遠鏡
「亭」の遠眼鏡
望遠鏡については今までもふれてきたが、井原西鶴の『好色一代男』に、この望遠鏡を非常に効果的に使用した場面があることはよく知られている。

『好色一代男』巻一の三「人に見せぬ所」は、小説の小道具として初めて望遠鏡を用いたとして、つとに有名であるが、そこには西鶴という作家の本質にかかわっている要素を直観させる部分があるという。

浅野晃氏によれば、
「世の介、四阿屋の。棟にさし懸り。亭の遠眼鏡を取持ちて」という表現はいたって晦渋であり、また、この部分について従来行われてきた解釈にはいくつかの疑問点があるとされる。
細かい考証については省略するが、浅野氏は、結局、この部分の情景を次のように説明する。
つまり、「九歳の世之介は、京都両替町の春日屋の物見台に備え付けの望遠鏡を持ち出して遊んでいた。
……そのうちに行水につかう女の姿を見つけて、四阿屋の棟に上った。
これは四方へ庇を出してある住居なので少年にも容易に上ることができたのである」と。

次いで、浅野氏は、西鶴がこの部分の原拠としたのは四代将軍家綱と紀州大納言頼宣にかかわる次のエピソードではなかったかと指摘する。

御承統のはじめ。天守の上りたまひしに。
御側のものら遠眼鏡を持来り。御覧あるべしと三度まで申上しに。
聞せたまはぬ御さまにて。はてに仰られしは。
われ幼しといへども当職の身なり。もし世人等。
今の将軍こそ日ごとに天守にのぼり。
遠鏡もて四方を見下すなどいひはやしなば。
ゆゆしき大事なり。承統の前はともかうもあれ。
今はさる軽軽しきわざはなすまじとのたまひしとぞ。
そのかみ紀伊大納言頼宣卿。
いとけなくおはしける頃。城の天守にのぼり。
千里鏡をもて四方を遠見し。大によろこびたまひ。
近習等も興ある事にもてはやしければ。
卿いよいよおもしろき事と思ひたまひ。
日々天守にて千里鏡をもてあそばされける。
或時安藤帯刀直次が其所へ推参し。
某にも御見せたまはるべしといひながら。
その鏡をとりて。直に天守より投おとし。
散々に打くだきてのち。国主日々櫓にのぼり。
遠鏡をもて往来の人を見給ふとありては。
下々ことの外艱困するもの多し。
よりて某打くだきて候。
御秘蔵の千里鏡を打くだきし事。
思召にかなはざらんには。
某を御成敗あるべしと直諌しければ。
卿大に恥おもひたまひ。
この後はかかる事絶てなし給はざりしといふことを伝へしが。
公には此事聞召置かれたるにはあらざるべけれど。
おのづから天品の卓越したまひしゆへ。
かかる仰もありなりしなるべし。(閑窓慎話)
〔「厳有院殿御実紀附録巻上」(『徳川実紀』第五輯。吉川弘文館、昭和四十年)〕

浅野氏によれば、紀州大納言頼宣についての逸話を市中の庶民生活の俗事に転換させた精神こそ、西鶴の俳諧精神そのものであった。
そして、「城閣の物見櫓である本来の意味を裏に利かせながら、民家の物見台を『亭』と耳慣れない言葉を用いて遠眼鏡の位置を示すという方法をとった」ために、いささか謎めいた晦渋な要素を残してしまったというわけである。

ところで、『好色一代男』が紀州大納言頼宣の逸話に基づくかどうかを含めて、望遠鏡が京都両替町の春日屋の物見台に備え付けてあったということの解釈にいろいろあるのは興味深い。
京都両替町の春日屋とは、世之介に「世の中を渡っていくための男の表芸として、算盤、天秤の使い方、金銀の鑑定を習わせようと」して預けられた母方の親戚の両替商である。
このような京都の大店が何のために望遠鏡などを物見台に備え付けておいたのだろうか。

前田金五郎氏は、『好色一代男全注釈』において、「延宝期には、京都の清水観音などでは、一文の拝見料で遠眼鏡をのぞかせた商売や、道中に遠眼鏡を持参した旅人もいた」ことを見れば、浅野氏のように、四代将軍家綱や頼宣の逸話を「市民の庶民生活俗事に転換させた」表現とみなす必要はないのではないかと指摘され、望遠鏡が読み込まれている俳諧用例をいくつかあげている。
今、それらから二、三をあげる。

「清水や山あり滝あり茶やも有り 亭の東に見る遠目がね 湖春」(続連珠二)
「上はもみ裏下は白むく 遠目鏡心のゆきて詠れば 錦水」(つくしの海付句)
「手もたゆし花持つ山の遠目鏡 信斎」(富士石一)
「道中にて 遠目鏡腕首たるる富士の秋 常二」(俳諧雑巾中)
〔前田金五郎『好色一代男全注釈』上、角川書店、昭和五十五年〕

このほかかなりの用例があることに驚かされる。
これらを見ると、たしかに「延宝期には遠眼鏡も一般に親しまれていたものとおもわれる」のである。
このほか、『好色一代男』刊行以前の用例が二十数句存在するというのであるから、春日屋のような上層商人の家に望遠鏡が備えつけられていたとしても不思議ではないだろう。

米相場と望遠鏡
また、それに加えていま少し具体的な見方もできる。
それは当時の金銀の相場を商うような大店ならば、望遠鏡は商売道具の一つであったという事実である。

当時、わが国の商業地は江戸と大坂であった。
そして、米相場や、金銀の相場を商う豪商にとっては、江戸ー大坂間の情報伝達の早さが最大の武器であったようだ。

情報伝達には、手旗信号とか音響信号などがあったようだが、東京ー大坂間を八時間で伝えたといわれるから驚くほど速い。

伝達には符牒といわれる隠語を使い、箱根を除き手旗信号で送り、これを望遠鏡で見て伝えていった。
箱根八里は一里ずつの早飛脚を走らせ、特別の鑑札で真夜中でも関所が通れたそうである。

江戸時代、米取引の中心は、大坂・堂島市場であった。
堂島市場の米相場が全国各地の市場の相場に大きな影響を与えたとともに、民間の少量取引の価格にも影響を及ぼしていた。

この堂島市場の屋根に望楼があり、そこで手旗を振って、西は神戸市の保久良山から、東は奈良の生駒山から望遠鏡で見て次々に伝達していった。
大坂ー広島間は四〇分で知らされていたというからまさに驚きである。

米相場以外にも、金銀相場においても情報伝達の早さは商売の決め手であった。
当時、江戸は「金」、大坂は「銀」であった。
金と銀の値段が絶えず違い、ここに相場がたっていた。
先の東京ー大坂八時間は三井家の話で、三井家は、米相場より金銀の相場でもうけたといわれる。
いずれにしても、情報伝達の手段として望遠鏡は豪商にとって必須の武器であったようである。

こう見てくると、世之介を親戚の両替商に、「金、銀の鑑定を習わせる」ために預けたとすれば、望遠鏡の存在は当然のものとなってしまい、あまりあたりまえだと文学的興味をそがれてしまう。(続く)

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