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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第十三回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第十三回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は十七世紀のヨーロッパです。前回はこちら

4 十七世紀のヨーロッパ
眼鏡の大衆化
一六三六年、一六三七年に、ポルトガル船で万単位の鼻眼鏡が輸入されていることが判明した。
とすれば、この当時のヨーロッパは、いかなる状態であったのだろうか。
はたして、万単位の眼鏡を輸出できる生産能力があったのであろうか。

以上の観点から十七世紀のヨーロッパを見てみたい。

眼鏡の歴史の中で最も異議深い出来事の一つに、近視用凹レンズの開発がある。
これは十六世紀初葉であった。
十七世紀に入ってからは、このような画期的出来事はなかったが、眼鏡そのものは急速に普及し、質の良い高級品と、大量消費向きの廉価な眼鏡にわかれていった。
その結果、眼鏡のスタイルによる階級差別なるものが生じて来たのである。

当時のヨーロッパ各国の眼鏡業者は、それぞれ身分組織として、組合(Guild)を結成している。
これらの組合は、業者の権利、および業務を規定した規則を定め、これを国や市が公認して法律としている。
組合の目的とするところはいろいろあったが、共通していえることは、技術水準の維持と粗悪品の防止であった。

一番古い組合制度は、第1章の2でも紹介した一三〇〇年当時のヴェネチアのもので、模造品や劣悪なレンズをつくることを禁止し、ヴェネチアのガラス製品の名声を落とすことを防止し、加えて、ヴェネチアの技術が他所に流出するのを防ぐことを目的としていた。
ドイツでは一五三五年、フランスでは一五二五年(または一五七五年)、そして一六二九年には、イギリスに眼鏡製作者組合が結成されている。

十七世紀のイギリスの裁判所(Court_of_Assistants)の記録中にも、いくつかの粗悪品摘発の裁判が記されている。

「一六六八年四月二十日=組合長及び組合委員がフェンチャーチ通りのシールドの自宅を検索したところ、製作中の品質粗悪な眼鏡一八〇個が発見された。
規則に従って、一個につき、二〇シリングの罰金が課せられた。(略)」
「一六六九年=クラーク小間物店では、三七二個にのぼるフランス式眼鏡が発見されたが、店主クラークは今後一切これらのものの販売を行わない旨を誓約し、同人の意思に基づき、それらのレンズ及びフレームを当組合員の手で破壊処分をしてくれるよう願い出た。(略)」
「一六六九年七月八日=ロンドンのジョン・ブリッグスは年季奉公人としての世紀の訓練期間を経ぬままで、眼鏡及び時計ガラスの製作に従っているので、当組合は次回の裁判の際同人を告発する。」
「一六七一年七月=バグナル夫人経営の小間物屋において、一般に販売することを禁じられている品質粗悪なレンズ及びフレームが二四四個発見された。
同夫人は少し前に主人をなくし、主人がどこから仕入れたか知らない旨を答えた。
それらの品物は、当組合憲章及びロンドン市長の条例によって没収処分に付されたが、市長裁判所の判定により、不良品又は贋製品と認定され、破壊処分をうけることとなった。(略)」
〔R.Corson,”Fashions_in_Eyeglasses”(梅田晴夫約『メガネ博物誌』東京書房社、昭和三十七年〕

このような不法な眼鏡製品の摘発が記録されていることは、粗悪品の横行を物語るものでもある。
当時、イギリスはドイツにかわり、ヨーロッパの中で優秀な技術水準にあると認められていた。
したがって、これらの記録は、そのための努力の跡ともいえる。

ドイツの記録を見ると、当時、行商人によっても眼鏡は売られていた。
行商人は少数のストックを携えて、それも、だいたい弱い度数の凸レンズの眼鏡であり、客はその中から自分に最もよく合う眼鏡を探し出し買っていた。
売られていた眼鏡は、縞や不純物の入った鋳造レンズに針金のフレームをつけた安物で、たいてい、ニュルンベルクかフユルトで造られたものだった。
この製品の品質低下は、ドイツの眼鏡製造者の能力水準を高める上で、非常に障害となっていた。
もともとニュルンベルクの眼鏡製造者は、ドイツはもとより、当時の世界を意味するヨーロッパでも、きわめて高い評価を得ていた。

組合も一五三五年に結成されている。
しかし、次第に極端な政策、たとえば、職人になるのは土地(ニュルンベルク)の良家の子弟に限るとか、採用試験ではない意地悪い出題をするなどの狭量主義、独占主義をとりはじめたため、徐々に衰退していった。
やがて、他の土地の競合者が力を増して来たことに対して、ニュルンベルクは、最も拙劣な方法で対抗しようとした。
それは、安かろう、悪かろうといった品物を大量につくることであった。
その結果、これらの製品が、眼鏡の効用について何も知らない行商人の手で売られていったのである。

このようにして、眼鏡製造の中心は、ドイツからイギリス、フランスへと移っていった。
ドイツが再び、その栄光を取り戻すのには、その後長い時間を要するのである。

眼鏡の高級化
ごく初期には、眼鏡はまだまだ高価なもので、学問をしている人間だけが使っていた。
そして、これがステータスシンボルとなり、次に経済的余裕のある人々が社会的地位の象徴として使い始める。
ところが、十七世紀に入り、廉価な眼鏡が急速に出回るようになると、金持や社交界の人々は、これまでよりいっそう高価な材料や洗練された技巧を用いた、新しいスタイルの眼鏡を求めるようになった。
そして単玉レンズ(スタイルとしては先祖返りとでもいえるものだが)など、技術革新の結果、昔のものより小型化された単眼眼鏡が、上流社会で流行し始めた。
これを、イギリスではパースペクティヴ・グラスと呼び、おもに近視用凹レンズを入れて、遠方用として使っていた。
これに対して、下級階級の人々は、おもに鼻眼鏡を使っていたようだ。

以上が十七世紀のヨーロッパの状態であった。
残念ながら、オランダ、ポルトガルなど、わが国と緊密な関係にあった国々の記録はほとんどない。

これらのことから考えると、ポルトガル船によってもたらされた、一六三六年、三七年当時の万単位の「鼻眼鏡」は、廉価な下層階級用のものであったのではないだろうか。

これに対して、『イギリス商館長日記』の眼鏡は、比較的高級品であったと推察する。
なぜなら、『日記』当時の一六二一年は、イギリスでは組合結成(一六二九年)以前であるが、イギリスの組合規約は極めて厳格なものであったことから、当時の製造の水準も、決して低いものとは思わないからである。

また、オランダ貿易における一六四三年のズワーン号の積荷目録の眼鏡は「進物用鼻眼鏡」、「遠眼鏡、虫眼鏡等珍奇な品」といっているから、これも高級品と思われる。
とくに、鼻眼鏡の上に「進物用」と但し書きがあることは、当時の「鼻眼鏡」の中には進物に耐えない粗悪品があったことの証明とも思える。

これら、送られてきた眼鏡の品質問題がしばしば登場することについては、当時のヨーロッパの史料と対比すれば、より理解しやすくなる。

なお、十七世紀における、光学分野での最も著しい発展は望遠鏡が発明されたことである。(続く)

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