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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第十五回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第十五回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は眼鏡の輸入価格についてです。前回はこちら

2 眼鏡の輸入価格
眼鏡の輸入価格
さて、以上のようにかなり大量に眼鏡が輸入されていることはわかったが、では、いったい、どのくらいの価格で輸入されていたのであろうか。

次の〔表5-2〕は、それぞれ正保元年(一六四四年)、延宝八年(一六八〇年)、天和三年(一六八三年)の価格表である。

表5-2
正保元年の価格は、「唐船の商品価格」の中に記載されたものであり、一〇〇個で三テールとある。
この史料によれば、一テールが銀一〇匁とあるから、三テールで銀三〇匁となる。
この銀三〇匁が、当時どのくらいの価値があるものかというと、ちょうどこの年、正保元年の米一石の価格が、三〇匁七分一厘である。
したがって、眼鏡一個は、米にして一升ということになろうか。
しかし、米の物価全体での相対的価値も、当時と現代では比較しにくいところがあるが、当時、輸入眼鏡が世間一般からどのように見られていたかを示す恰好の例があるので紹介しておこう。

奢侈品の輸入禁止令
それは、幕府が出した奢侈品の輸入を禁止する法令の布達にかかわる話である。
その法令(おそらく、寛文八年三月八日付の「覚」であろう)は、そもそも当時、金・銀の海外流出に悩まされていた幕府が、その流出と輸入品の元値段を抑制し、ひいては、国内での物価騰貴を抑えようとして、寛文十二年(一六七二年)から「市法貨物商法」と呼ばれる長崎貿易の統制を行うが、それに先立って、奢侈品の輸入を禁止しようとして出されたのが、この寛文八年の「覚」であった。
この法令では、主に贅沢品の輸入を禁止しているが、じつは当初、この贅沢品の中に眼鏡が入っていたことが「覚」からうかがわれるのである。

史料を見ると、三月二十二日に、大通詞より唐船船頭らに申し渡された輸入禁止品目の中に「持渡リ禁制ノ品」「異国~持渡間敷品~之覚」として、「小間物道具」があげられているが、二十二日の段階ではその内容が明らかではなかったらしく、五月二十三日になって、通詞仲間が長崎奉行所へ出頭して、小間物道具の具体的な内容について詮議している。
結果として、「鼻目かねハ重宝成ものニ御座候間、持渡り候而も不苦由被仰付候」として輸入が認められ、翌二十四日、このことを含んで、長崎奉行より「はなめかね并ひいとろ前~之通持渡り可申事」という書き付けが、通詞仲間を通じて船頭・宿主らに達せられるという内容である。

この経緯を見れば明らかなように、眼鏡は当初、無用な奢侈品として見られていた様子がうかがえる。
しかし、たとえそれが贅沢品であるとしても、「重宝成もの」であることにかわりはなく、結局、ビイドロと同様に、眼鏡が日常生活において不可欠なものであることが認められている。
ここに、当時の人々の眼鏡に対する一般的な見方が、あらわれているのではないだろうか。

〔表5-2〕の延宝八年(一六八〇年)と天和三年(一六八三年)の価格は、延宝八年が「長崎奉行により評価され最高入札者に売られた中国商品の価格」というもの、そして天和三年が「町年寄により評価され、最高入札者に売られた中国商品の価格」という性格の史料である。
それぞれ、商人A、商人Bから仕入れた情報となっている。

たとえば延宝八年でいえば、長崎奉行の評価額は一マース、これに対して最高入札者への売渡額は、その倍の二マースということである。
これにより、その年の眼鏡の評価額と売渡額とがわかるのである。
天和三年の例では、商人Aの情報では、町年寄による評価が五マース、売渡額が七マース、商人Bの情報では、それぞれ五マース二コンデリンと六マースとなっている。
当時の貿易仕法(市法貨物商法)では、売渡額と評価額との差、延宝八年の場合一マースであるが、これが増銀として「市法商人」に配分されることになっていたのである。(続く)

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