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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第十四回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第十四回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は近世日中貿易と眼鏡についてです。前回はこちら

第5章 日中貿易と眼鏡

1 近世日中貿易と眼鏡
唐船による眼鏡の輸入

私たちの多くは、鎖国以後の江戸時代において日本と貿易を行っていた外国は、オランダ一国であるというイメージを強烈にもちあわせているようである。
たしかに、オランダ、長崎、出島、蘭学といった言葉をならべてみれば、オランダが果たした役割の大きさを否定することはできない。
しかし、鎖国以後の日本との貿易に関していうならば、オランダ以外に中国、つまり当時の王朝でいえば明・清を忘れてはならないだろう。
江戸時代を通じて中国との貿易は、たとえ私貿易であったとしても、船数はいうまでもなく、貿易額にしても、常にオランダを凌駕していたのである。

ところで、この日中貿易によって眼鏡は日本にもたらされていたのであろうか。
もし、もたらされていたとしたならば、その数量はどのくらいだったのか、あるいは価格はどのくらいだったのか、ぜひとも知りたいところである。
しかし、日中貿易についてその取引額・取引内容についての史料はきわめて乏しいことはよく知られているところであった。
そうした中で、近年、永積洋子氏によって『唐船輸出入品数量一覧 一六三七~一八三三 ー復元唐船貨物改帳・帰帆荷物買渡帳ー』(創文社、昭和六十二年)が編纂されたことは、私たちにとって喜ばしいことであった。
というのも、これにより、近世の日中貿易についての数量的な考察が行えるようになり、眼鏡の輸入についても、同書によっていまだ断片的ではあるが、かなり明らかにすることができるようになったからである。

さて、『唐船輸出入品数量一覧』であるが、これは、「オランダ商館日記」、「バタヴィア城日記」、および「東インド到着文書」の中から、唐船の輸出入商品に関する記事を選び出したものであり、いわば、商売敵のオランダが集めた情報をまとめたものである。

オランダは、平戸にオランダ商館があった時代から、商売敵であるポルトガル船や中国船の輸出入品について、かなり詳細な情報を集めていた。
鎖国体制の完成後も、通詞たちを通じて中国船の情報を積極的に集め、それを「商館日記」などに記載していたのである。
同書は、これら「商館日記」などに記載された中国船の輸出入商品に関する記事を、ほぼ二〇〇年にわたって拾い出したものであり、それによって、江戸時代における日中貿易の数量変化を見ようというものである。
しかし、もちろん、それが当時の日中貿易の全貌を網羅しているものでないことは言うまでもない。

さて次の〔表5-1〕は、この『唐船輸出入品数量一覧』から眼鏡の輸入数量を抜き出したものである。

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この表で明示されているのは、寛文三年(一六六三年)から延享三年(一七四六年)までの約八〇年間に、眼鏡の輸入が見られないことである。
しかし、この間に眼鏡の輸入がなかったのかというと、そうではないだろう。
というのは、『唐蛮貨物帳』と『長崎御用留』という史料には正徳元年(一七一一年)に長崎に入港、あるいは出港した唐船一隻ごとの積荷目録が記されているが、その中に、「鼻めがね三〇〇個」、「小めがね九四四〇個」の輸入が記載されているからである。
『唐蛮貨物帳』と『長崎御用留』によれば、この八〇年間にも眼鏡の輸入があったと考えられるのであるが、『唐船輸出入品数量一覧』には正徳元年の記事はない。
つまり、正徳元年の記事がないというのは、『唐船輸出入品数量一覧』が、商売敵であるオランダが集めた情報に基づいているという史料上の制約によるものなのである。
『唐船輸出入品数量一覧』が、必ずしも当時の日中貿易の全貌を伝えるものでない所以である。

したがって、この表から、眼鏡の輸入についての数量的考察を加えることはできないが、おおよその傾向としては、眼鏡の輸入のピークが、十八世紀半ば頃にあることは認められよう。
なかでも、明和五年(一七六八年)には、八番南京船が一万個の眼鏡をもたらしているのを最高に、ここに記載されただけでも、その年だけで総計一万一六九九個の眼鏡が輸入されている。

このように大量の眼鏡は、いったい、中国のどこで生産されていたのであろうか。
十八世紀初頭の享保元年(一七一六年)の成立とされる『崎陽群談』の第八、『中華一五省府県等之大概』を見ると、広東省の土産として「眼鑑」とある。
趙翼の『陔餘叢考』にも、当時広東人が優秀な眼鏡を製作し、これが中国全土に普及していったという記事もあり、広東は当時の中国における眼鏡の生産地であったことがうかがわれる。
おそらく、当時、日本にもたらされていた眼鏡の多くは、この広東で生産されたものと考えてもいいのではないだろうか。

『唐船輸出入品数量一覧』で眼鏡の輸入が認められるのは、文化元年~二年(一八〇四~一八〇五年)のそれが最後であるが、別種の史料によった山脇悌二郎氏の『長崎の唐人貿易』(吉川弘文館、昭和三十九年)には、「文化元年唐船十一隻舶載品目・数量表」として「水州眼鏡」一五個、「水州近眼鏡」一二個、「眼鏡」五個、「十二支近眼鏡」二〇個が記載されていることを付け加えておきたい。
『唐船輸出入品数量一覧』でもわかるように、十八世紀の後半にかけて、眼鏡の輸入数量は漸次減少の傾向にあることは明らかである。
おそらく、そのことは、国内における眼鏡製造の発展の結果を反映したものと思われるが、なお中国から眼鏡が輸入されているのは、何か特別な用途があってのことなのだろうか。
ちなみに、「水州眼鏡」あるいは「水州近眼鏡」は、水州で製造された眼鏡のことであろうか、「十二支近眼鏡」とは、どのような眼鏡なのか不明である。(続く)

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