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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第四十二回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第四十二回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回は眼鏡普及の背景についてです。前回はこちら

3 眼鏡普及の背景
明治に入り、眼鏡の普及がいちだんと進んだことについて、これを「文明開化のシンボル」「ステータス・シンボル」をしてとらえることには異存はないところであろう。

しかし、眼鏡のわが国への渡来は十六世紀であり、すでに三〇〇年内外の歳月が流れ、この間、庶民生活の中にもある程度普及していたことはすでに見てきたところであるが、にもかかわらず、明治に入ってなぜ眼鏡かということを少し考えてみたい。

ヨーロッパとの対比
ヨーロッパで十三世紀末に発明された眼鏡が、早いころから博学のシンボルとしての地位を確立し、数世紀にわたりこれを保持してきた。
聖者を描いた宗教画、有力者の肖像画に、尊敬に値する学識・博識の持ち主であることをビジュアルに表現する小道具として描かれた眼鏡は、実際に使っていたか否かを無視してまで利用されていた。

この時代の眼鏡は、すべて、いわゆる老眼鏡である。
したがって、老眼鏡イコール読書イコール博学イコール尊敬に値するという認識が出来上がっていた。

しかしわが国では、十六世紀に眼鏡が渡来して以来、前述のような図式に見合う文献、絵画は目にしたことがない。
たしかに、外交交渉に伴う贈答品として、あるいは、キリスト教布教の手段として、眼鏡が効果的商品の一つであったことは間違いない。
また、大名や領主が眼鏡を渇望していたことも事実である。
ただしこれは、眼鏡をもつ機能、その実用的価値を認識したことによるものであった。

将軍や高僧の眼鏡をかけた絵、すなわち、ヨーロッパのように博識の象徴として眼鏡を用いている絵をみたことはないのみならず、むしろ、風俗画や職人絵に多く見られる眼鏡は、あくまで実用性中心であり、眼鏡イコール老眼鏡イコール細かい手仕事という図式の上に、細かい手仕事をビジュアルに象徴するシンボルであった。

このように、日本の眼鏡は江戸時代を通じて、眼鏡を実利的に認識していたといえよう。

近眼用眼鏡とステータス・シンボル
老眼鏡を博学のステータス・シンボルとしたヨーロッパに対し、実利的認識を持ち続けた日本人も、江戸時代から明治に入ると、眼鏡にステータス・シンボルの地位を与えるようになる。
明治維新による近代化、いわゆる「文明開化」の時代、文明開化のシンボルの一つとして取り上げられる。
このときの主役は、近視用眼鏡と、近視らしく装う素通し眼鏡、いわゆる伊達眼鏡である。

「文明開化」とは、西洋文明の導入であることから考えると、近眼鏡をかけることがヨーロッパのファッションと思ったのであろうか、そのような一面もないとはいえない。
それは、ひもかけ式で、鼻あて支柱のついた老眼鏡に見慣れた人々にとって、鉄、金、銀、赤胴などの金属で作られたモノクル(片眼鏡の眼窩にレンズをはめ込むもの)、ローネット(柄つき手持ち眼鏡)、パンスヌ(スプリング式鼻眼鏡)などの新型のデザインは、和服に対する洋装のように斬新なスタイルであった。
そして、それは西欧文明の雰囲気を感じさせるものであっただろう。

しかし、この近視用眼鏡あるいは、伊達眼鏡の流行も、当のヨーロッパ人にとっては、西欧化とは写らなかったようだ。
たとえば、イギリス人、ワーグマンは「眼鏡」と「出っ歯」を日本人の特徴としてとらえ、諷刺している。

十六世紀の初葉に、近視用レンズが開発されて以来、ヨーロッパでは読書用眼鏡は「オールドグラス」と呼ばれ、一方、遠くを見るための眼鏡、近視用眼鏡は「ヤンググラス」と呼ばれ区別されてきた。
そして、次々に新型フレームが現れ、そのたびに流行した。
しかし、それはファッションの小道具としてであり、かつての時代のように博学とか知識人を表すためのものではなかった。
確かに、ヴェルサイユ宮殿のレセプションで、マリー・アントワネットが、後のロシア皇帝ポール一世の妃となるヘルゼ・ダルムシュタット侯爵夫人に、要の部分に近眼用レンズをはめこんだ豪華な扇を「あなたも私と同じきんしだそうですね。今日の記念に」といって贈ったという記録(一七三八年五月二十三日)もあるように、活発な利用はなされていたが、一般的には、スペインを除くヨーロッパ諸国では、こちに、上流階級では、公共の場所での眼鏡の使用はさけるべきものだとされていた。

以上のように、十八世紀、十九世紀のヨーロッパに、眼鏡は博学のシンボルというより、あまりにも実用性をこえた流行があり、その反作用ともいえる批判を一面においてもたれていたのである。

このあたりの認識が、ワーグマンが、「眼鏡」を「出っ歯」同様に日本人を諷刺するキャプションに取り上げたのかもしれない。
ワーグマンがどのように見ようが、当時の日本人が、眼鏡を、それも近視用眼鏡を、博学、知識人のシンボルと考えていたことは事実である。
それではその背景は何であったのだろうか。

教育と近眼鏡
人間は四十五歳前後を境として、誰でも調節力が衰え老眼減少が起こる(老眼鏡が必要であるなしを別として必ず起こる。
これに対して、近視は生まれつき近眼である先天的近視の人より、読書、勉強などの細かい作業をすることにより発生する後天的近視の人のほうが多い。
したがって近視を含めて、眼鏡装用者の比率が教育水準に比例することは世界的定説である。

明治時代を見るとき、明治二十七年~三十年に静岡県下の学校生徒の近視率を調査した、美甘光太郎復明館沼津分院長の報告を見ても、静岡県小学校生徒で四パーセント弱、静岡尋常中学校生徒で二一パーセント弱、静岡尋常師範学校三五パーセント弱となり、同じ学校内でも上級生になるほど高率となっている(たとえば、尋常中学校で一年生一一・六パーセント、五年生五一・六パーセント)。
ちなみに、現在(平成元年度の文部省調査)では小学校六年生で二七・三パーセント、中学三年生で四六・三パーセント、高校三年生は五六・六パーセントである。

これらのことから、近視用眼鏡は、勉学読書の結果との認識が明治時代にすでにあったとしても当然であろう。
このような考えは日本だけではない。
たとえば、韓国では、親の前へ出るときは必ず眼鏡をはずすことが礼儀とされていたり、中国でも、目上の人の前では、目下の人が眼鏡をかけないことが作法であるといわれていたり、ドイツでは、カイゼル(皇帝)に謁見するときの礼に眼鏡をはずすことが含まれていたなどの記録もある。
眼鏡を目上の人の前でかけることは、いかにも自分が博学であることを披露するようで、不敬になると考えたためであろう。
したがって、眼鏡イコール博学の図式にのった考え方である。

近視用眼鏡が勉学の結果の博学をビジュアルにあらわすものともしても、日本人が初めて近眼鏡を目にしたのは、老眼鏡の渡来とほとんど同時期であることはフロイスの『日本史』や「南蛮屏風」で明らかである。
しかし、近視用眼鏡が博学のシンボルとして取り扱われた証拠は明治に入るまで管見できない。
したがって、博学のシンボルという理由だけではなく、また単に、西欧かぶれとも言い切れない何かがそこにあると思う。

それは明治維新における国家体制の整備には文明の転換も必要である、それをやりとげる知識も、古い知識の所有者ではない新しい知識でなければならなかったということではないだろうか。
新しい時代をリードする、新しい知識人、それは新しい知識を勉強した人、勉強した結果近視になった人、という図式ではないだろうか。

明治政府が国家近代化のために、学校教育の普及に力を入れたことも眼鏡普及の背景にある。
また、近代化には、国家、企業、軍隊などの大規模組織の維持発展がなされなければならない。
そのために近代官僚制による文書を用いての職務遂行が不可欠となる。
それには、話す、聴くのオーラルコミュニケーションから、書く、読むのビジュアルコミュニケーションへの転換が必須となったこと、加えて、旧体制の社会的秩序は破壊され、新しい時代の社会的地位は教育の高低に準ずるという思想にも影響されたことだろう。
これら数々の要因が重なったことによると思われるが、いずれにしても、政府が急務とした国家近代化の眼鏡のもつ勉学、博学イメージが合致したことが、眼鏡をその渡来以来三〇〇年を経て初めてステータス・シンボルとした一番大きな原因ではなかっただろうか。(終)

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