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【連載】「眼鏡の社会史」(白山晰也著)第五回


弊社四代目社長の白山晰也が記した著書「眼鏡の社会史」(ダイヤモンド社)の無料公開連載の第五回です。
老舗眼鏡店の代表であった白山晰也が眼鏡の歴史について語ります。
今回はフランシスコ・ザビエルと眼鏡についてです。前回はこちら

2 フランシスコ・ザビエルと眼鏡
大仙院の古眼鏡
大西克知博士が「眼鏡雑記(続)」(『日本眼科学会雑誌』二三巻七号、大正八年)で、イエスズ会宣教師フランシスコ・ザビエルが一五五一年(天文二十年)、大内義隆に献上したのが、眼鏡の日本への最初であることを指摘して以来、その後、河本重治郎博士もこのザビエル説を踏襲し、現在に至っている。

しかし、ザビエル以前に眼鏡が日本へ伝来していないといいきれるわけではない。
たとえば、京都大徳寺大仙院所蔵の足利義晴所持の眼鏡が、現存する日本最古の眼鏡と考えられるからである。

大仙院眼鏡
大徳寺北派大庵大仙院は、永正六年(一五〇九年)、正法大聖国師・古岳宗亘禅師開祖の名刹である。
室町時代の代表的枯山水庭園は国の特別名勝および史蹟に、また、襖絵は狩野之信の作で、重要文化財の指定を受けている。
なお、三世・古渓和尚と千利休、七世・沢庵和尚と宮本武蔵など、歴史上有名な人物とのかかわりあいも多い。

寺伝によれば、大仙院に伝わる「古眼鏡」は、室町幕府八代将軍・足利義政使用のものを、十二代将軍・足利義晴より同院開祖の古岳禅師に与えられたものと伝えられているそうである。
現物は、象牙製のフレームとケース(瓢箪型)からなり、比較的強度の凸レンズ(すなわち老眼鏡)が入っている。
色調は豊かで鮮やかなものであり、模様も独特で、外国製ではあろうがヨーロッパ製とは考えにくい。

『眼鏡の歴史』の著者であり、この眼鏡を初めて紹介した大坪元治氏は、その容器に刻まれた模様や色調から、南中国製で、ザビエル来邦前の渡来品と推察している。
これに対して、『日本の眼鏡』の著者、長岡博男博士は、容器の紋様に見られる突起が九個であることを指摘し、この奇数は中国人の好みに反するとして中国製を否定し、産地はさらに遠くシルクロードの彼方と想定している。

このことに関し、中国の史料と対比してみると、趙翼の著『陔餘叢考』の中に、「古来未だ眼鏡あらず。有明に至って始めてこれあり。=中略=その父宋伯公の得るところの宣廟の賜物にして銭大の如き物二つあるを見たり」とあり、また、「嘉靖の時なお(眼鏡を)見ることまれなるを知る。呉瓢庵集中に『屠公が眼鏡をおくらるを謝する詩』あり、
呂藍衍また明の提学潮陽の林某始めて一具を得、目力倦む毎にこれを以って目を掩えば能く細書を弁ず。
その来る番船満刺加国の賈胡よりす。名づけて靉靆というと云えり。則ちこの物、前明にあって極めて貴重となす。
或は内府より頒かち、或は、これを賈胡より購う。力ある者にあらざれば得ること能わず。今日(清代)則ち天下にあまねし。
蓋し本皆な外洋より来り、皆な玻瓈をもて製するところなり。後広東の人その式に倣らい、水晶を以って製成す、乃ち更らにその上に出ずるなり」とある。

このことは、義晴の時代でさえ、中国で眼鏡を見るのはまれで、満刹加国の賈胡より購入したりして、大変貴重なもので、力のある者でなければ入手できなかったことを示している。
後の清代では、広東人たちがつくり方を覚え、水晶レンズを使って、西洋のものよりむしろ優秀なものをつくれるようになり、中国全土に普及していった、ということになる。

この記述によれば、少なくとも明代の中国には、すでに眼鏡は存在していたが、それは全て輸入品であったと考えられる。
大仙院の「古眼鏡」を実際に義政が使っていたものとすれば、たとえ中国から入手したものとしても、その産地は中国以外の地域と考えたほうがよいであろう。

一方、ヨーロッパ側の史料ではどうなっているのだろうか。
大仙院の「古眼鏡」の形態は、いわゆるヒンジ眼鏡(蝶番眼鏡)といわれるもので、両眼部から柄を出して中心を鋲で止め、ここを中心に可動し、レンズ間の距離を調整できるスタイルであり、これは十六世紀に流行したものである。

ヨーロッパの眼鏡に関する史料には、日本に関して記述したものは非常に少ない。
管見するものの中では、ベルリン大学のグリーフ教授が一九三三年に出版した著書の中に、「日本には一五三〇年頃、中国を経由して眼鏡が渡った」という記述がある。
しかし、教授はいかなる証拠をもって一五三〇年としたかについては明らかにしていない。
一五三〇年は、ザビエルが大内義隆に眼鏡を贈ったといわれる天文二十年(一五五一年)より二〇年前のことになる。
いずれにしても、大仙院、あるいは、足利義政、義晴などの関連史料に、この「古眼鏡」に関する文献が見つからないのは残念でならない。

フロイスの『日本史』
次に、フランシスコ・ザビエルと眼鏡の関係についてであるが、このことを示す史料としてまずあげられるのが、ルイス・フロイスの『日本史』である。

メストレ・フランシスコ(・ザビエル)師がその伴侶とともに周防の国に向かい、国主(大内義隆)がその延臣とともに住んでいる山口のまちに戻って来た時に、
フランシスコ師は、特に国主の好意と愛顧に与かるために彼を訪問しようと決意した。
なぜならば彼は正当な国主であって、その同意と愛顧なしには同地には住むことができなかったからである。
そのために(フランシスコ師)は彼に捧呈する十三の立派な贈物を選定した。
それらは、次のようなもの、すなわち、非常に精巧に作られた時を告げる時計、三つの砲身を有する高価な燧石の鉄砲、緞子、非常に美しい結晶ガラス、鏡、眼鏡などであり、その他、インドの初代司教ドン・ジョアン・デ・アルプルケと、別に総督ガルシア・デ・サーからの二通の羊皮紙に書かれた書簡を(添えた)。
ところでそれらの贈物は、いずれも、当時その地方ではかつて見たこともない品から成っていたので、国主は非常に満足の意を示し、ただちに街路に立札を立てさせ、その中で、彼は、そのまち並びに領国内で、デウスの教えが弘められるならば喜ばしいとも、誰しも望みのままにその(教えを)信じてもよいとも宣言し、それを周知せしめた。
同時に彼は全家臣に対して、汝らは伴天連たちをなんら煩わしてはならぬと命じ、(フランシスコ師ら)に対しては、彼とその従者が居住できるように、一寺院を提供した。
さらに国主はインドへの贈答品を携えて、一人の仏僧、もしくは俗人を(自らの)使者として派遣することを希望した。

これによれば、一五五一年(天文二十年)四月下旬、イエスズ会宣教師フランシスコ・ザビエルは周防の国主大内義隆に謁見し、『十三の立派な贈物』を献上したが、その中に鉄砲をはじめとするヨーロッパの文物に混じって、眼鏡が含まれていたとある。

そもそも、フランシスコ・ザビエルが日本布教の野心に燃えて、日本人ヤジロウらとともに鹿児島に上陸したのは一五四九年、カトリック歴で聖母被昇天の祝日にあたる八月十五日(天文十八年七月二十二日)であった。
ザビエルの来日の目的がキリスト教の布教であることはいうまでもないが、そのためには「日本最強の国主」から布教許可を得る必要があることを痛感していた。
ザビエルは、薩摩の領主、島津貴久に「ミヤコ」へ上り、天皇へ拝謁する便宜を与えられんことを期待したが、逆に領内における布教を禁止されてしまう有様であった。
そこで、やむなく鹿児島を去る決心をしたザビエルは、いったん平戸へ赴き、さらに博多、山口を経て、一五五一年一月中旬ようやく念願の「ミヤコ」へ到着するのである。

しかし、念願の「ミヤコ」は応仁の乱の結果、その大部分は破壊され、「神の教を伝へるための平和」など存在する余地はまったくなかった。
ザビエルが「日本最強の国主」と目した天皇、将軍はともに実権はなく、拝謁することもできないまま、ザビエルは在京わずか半月あまりで「ミヤコ」を退去している。

「ミヤコ」がこのような状態であるとすれば、ザビエルが、当時「西の都」とうたわれ、繁栄を誇っていた大内氏の城下山口に布教活動の拠点を考えたのは当然の成り行きであったろう。
そこでザビエルは、いったん平戸まで戻り、一五五〇年の夏に平戸に入港したポルトガル船によって運ばれてきた贈り物を受け取った後、改めて山口へ入り、この大内義隆との会見になったのである。

このときザビエルが大内義隆に贈った「十三の立派な贈物」は、もともとマラッカのポルトガル総督ペトロ・ダ・シルヴァによって、「日本最強の国主」から布教許可を得られるようにと用意されたものであった。
ところが、どういう理由か、ザビエルが「ミヤコ」へ上ったときに、彼らはなんの贈り物ももっておらず、そのため天皇への拝謁を拒否されたとされている。
そこで今度は、日本の習慣に倣い、正装に威儀を正し、高価な贈り物を携えて大内義隆との会見に臨んだという次第である。

大内義隆と眼鏡
次の『大内義隆記』の記事は、内容的にフロイスの『日本史』と大体符号するものであり、フランシスコ・ザビエルによる、眼鏡の日本伝来説を裏付ける日本側の史料として、重要なものとなっている。

都督在世ノ間ヨリ石見ノ国太田ノ郡ニハ銀山ノ出来ツ、宝ノ山トナリケレバ。異朝ヨリハ是ヲ聞。
唐土。天竺。高麗ノ船ヲ数々渡シツツ。天竺ノ送物様々ノ其中ニ。
十二時ヲ司ルニ夜ル昼ノ長短ヲチガヘズ警鐘ノ声ト十三ノ琴ノ糸ヒカザル五調子十二調子ヲ吟ズルト老眼ノアザヤカニミユル鏡ノカゲナレバ。
程遠ケレドモクモリナキ鏡モ二面候ヘバ。カ、ル不思議ノ重宝ヲ五サマ送ケルトカヤ。
※都督=太宰権帥の唐名、大内義隆をさす。(『大内義隆記』<『郡書類従』合戦部、巻三九四>)

『大内義隆記』は、周防の国主、大内義隆の行状記であり、著されたのがザビエルが義隆に謁見したその年、天文二十年というから、まさに同時代史料といってよい。
その意味で後年の執筆になるフロイスの『日本史』にくらべて、史料的価値としては高いのであるが、残念ながら記事の年代を明確に決定しにくい恨みがある。
そのため、この記事を天文八年のこととし、したがって「天竺仁」はザビエルでないとする説もある。

『大内義隆記』には「天竺仁」なる用語が二カ所出てくる。
一つは先に引用した部分であり、もう一つは「天竺仁モ諸トモニ。当年ノ八月ニハ国ガ乱レ。
打反シ闇ノ夜ノ様ニ成ベシト申セバ人モ騒動ス」とあって、山口城下で大内氏の家臣陶隆房による謀反の不穏な動きが渦巻く中、八月五日の夜には山口城下に光る物が飛び、庭前の大きな松が枯れるなど不吉な前兆があらわれたりしている状況で、「天竺仁」が終末の布教を行っているところを描写した部分である。
ここに見る「天竺仁」は、明らかに山口城下での布教を行うイエスズ会士と考えられ、年代は大内義隆死去の直前、天文二十年八月である。
とすれば、先の「天竺仁」もその年、布教許可を与えられんとして大内義隆に拝謁したザビエル一行にほかならないのである。

そして『大内義隆記』にあげられている贈り物、つまり「十二時ヲ司ルに夜ル昼ノ長短ヲチガヘズ響」く時計、「十三ノ琴ノ糸ヒカザルニ五調子十二調子を吟ズル」ところの鍵盤楽器、「老眼ノアザヤカニミユル鏡」とある老眼鏡、「程遠ケレドモクモリナキ鏡」二面など、「五サマ」の「不思議ノ重宝」と、フロイスの『日本史』にあげられている十三の立派な贈り物、つまり時計、鉄砲、緞子、結晶ガラス、鏡、眼鏡などと明らかに品目が一致する部分があることからも、『大内義隆記』の記事が一五五一年(天文二十年)のことであることは疑う余地はないのである。

かつて大西博士は、「眼鏡雑記(続)」(『日本眼科学会雑誌』二三巻七号)で『日本西教史』(クラッセ)と『本朝通鑑』『工芸志科』から、「眼鏡ハ西暦一五五一年、天文二十年『ゼズイット派』教団ノ創始者、我邦最初ノ西教伝導者、フランシスコ・デ・ハウィエールノ手ヲ経、始メテ我邦ニ入ル」と結論したが、フロイスの『日本史』および『大内義隆記』からも大西説を追認することができるのである。(続く)

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